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週末にサクッと行ける!歴女がおすすめする関東の幕末ゆかりスポット

週末にサクッと行ける!歴女がおすすめする関東の幕末ゆかりスポット

「日本の歴史では一番何時代が好き?」と質問に対し、おそらく多くの人が「戦国時代」か「幕末」と答えるのではないでしょうか。

私は世界史が好きで大学受験も世界史で受験しましたが、一時期幕末にどハマりした時期がありました。(大河ドラマが「新選組!」だった時です)

あちこちの史跡巡りに限らず、幕末の志士達が使っていた刀や家紋にまで興味が広がり、お彼岸のお墓詣りの時は他の家の墓石の家紋が気になってしょうがないという高校生でした…

幕末といえば「寺田屋事件」や「池田屋事件」、「禁門の変」など京都のイメージが強いですが、当時活躍したの志士達の多くは江戸でも剣術を学んだりと、東京を始めとする関東にもゆかりの場所が沢山あります。

関東に住んでる人は意外と行きやすいところにあるので、週末を利用してすぐに行かれる場所をいくつかご紹介させていただきます。

 

土方歳三資料館

週末にサクッと行ける!歴女がおすすめする関東の幕末ゆかりスポット
新選組の「鬼の副長」、土方歳三は東京都日野市で生まれました。農家の生まれでしたがなかなかの暴れん坊で、端正な顔立ちにもかかわらず触るとイバラのように危険という意味で「バラガキ」と呼ばれていたそうです。

江戸に奉公にも出たり(問題起こして帰ってきましたが)、実家の秘伝薬「石田散薬(効き目は不明)」の行商人をしていました。

しかし「武士になりたい」という思いは人一倍強く、行商をしながらあちこちの剣術道場で他流試合を重ねその腕を磨いていきました。

 

後の新選組局長・近藤勇と出会い、天然理心流を学び、激動の時代へ身を投じていくことになりますが、日野には彼の生家が資料館として一般公開されています。

愛用した刀、直筆書簡、俳句、池田屋事件で着用した鎖帷子など幕末好きにはたまらない展示内容です。

 

江戸三大道場跡

幕末期には多くの人が剣術を学びに江戸へやってきていました。時代劇が好きなおじいちゃんに聞くと、もしかしたら「千葉周作、神田お玉が池」というワードが出てくるかもしれません。

幕末期江戸には有名な道場が三つあり、明治以降に松崎浪四郎という剣術家が幕末に対戦した3名の強い剣客をあげ、「位は桃井、技は千葉、力は斎藤」と表し、この3つの道場が「江戸三大道場」と言われるようになりました。

 

位は桃井ー士学館

流派は「鏡心明智流」。1773年に桃井直由が現在の中央区日本橋茅場町に開設し、後に中央区新富に移転。

土佐藩の武市半平太、「人斬り以蔵」と人々を震え上がらせた岡田以蔵がこの流派を学びました。この鏡心明智流は後の警視庁剣道の主流となり、現在もその武術の形が残されています。

 

技は千葉ー玄武館

流派は「北辰一刀流」。門戸を広くし、門下生は学問にも触れたので明治維新に影響を与える人物たちが輩出されました。

1822年、千葉周作が日本橋に開設し、後に現在の東京都千代田区岩本町あたりにあった神田於玉が池に移転しました。幕末には坂本龍馬、清河八郎、新選組の山南敬助、藤堂平助、伊東甲子太郎という錚々たる人々がこの流派を学びました。

 

力は斎藤ー練兵館

流派は「神道無念流」。1826年、初代斎藤弥九郎が九段坂下の俎橋付近に開設。のちに九段坂上、現在の靖国神社の境内内に移転されました。

幕末には長州藩の桂小五郎(後の木戸孝允)、新選組の二番隊隊長永倉新八、初代局長の芹沢鴨がこの流派を学びました。

東京や関東に住んでいる方は一度は近くを通ったと思われる地名がずらっと並んでいます。自分が通ったあの道を、もしかしたらその昔坂本龍馬も歩いていたかもしれないと思うとドキドキしませんか?

 

傳通院

1853年にペリーが浦賀へ来航して以来、長く鎖国をしていた日本中が大騒ぎとなりました。

開国を求めるペリーに対し、幕府は大混乱に陥り、今まで絶対的な権力を誇っていた幕府が広く大名や旗本に意見を聞いたり、朝廷に経過報告をしたりと、江戸幕府の権威が一気に急落しました。一方で天皇の権威が急上昇し、天皇を中心としての外国(夷狄)を打ち払う「尊皇攘夷」の動きが広まってきました。

 

そんな中、かねてより武士になりたい、幕府のお役に立ちたいと願っていた近藤勇、土方歳三に大きなチャンスが巡ってきます。第14代将軍の徳川家茂が、朝廷より攘夷実施の求めに応じる形で、約330年ぶりに上洛することとなりました。

そこで清河八郎という志士の発案で、腕に覚えがあれば身分を問わず将軍警護のために共に上洛する「浪士組」が結成され、近藤、土方を始めとする試衛館のメンバーが参加をしました。

文京区小石川の傳通院はこの浪士組が会合を重ねた場所で、1863年2月8日にこの場所から中山道を通り京へ向かうことになりました。

 

小石川伝通院は新選組の出発地点。(浪士組は京都に到着すると思想の違いから分裂します)ようやく幕府のお役に立つことができると、胸を高鳴らせていた若者たちがここに集まっていたと思うとこちらも武者震いしてしまいそうです。

ちなみに傳通院は徳川家ゆかりの地で、徳川家康の生母・於大の方、徳川家から豊臣家へ嫁ぎ大坂の陣から生き延びた千姫が眠り、そして幕末にこの浪士組を結成した清河八郎もこの伝通院に眠っています。

 

今戸神社

浅草駅からバスで約5分、または徒歩で15分ほど、右手に東京スカイツリーを見ながら隅田川沿いを歩いていくと、左手に「今戸神社」が現れます。

有名な縁結びの神社であり、境内にたくさん飾られている招き猫が印象的です。縁結びの神社だけあって、いつも大勢の人がここにお参りに来ています。私も初めてここに参拝に来てから、自分にとっては毎年良いことが起こる為、初詣には毎年ここに来ています。

ここの神社は縁結びの神社でありながら、実は新選組一番隊隊長・沖田総司が最期に過ごした場所と伝えられています。(二つの説があるうちの一箇所)

新選組の一番隊隊長という重要な任務に就き、剣術の腕もピカイチ。実力者揃いの新選組の中でも撃剣師範を務め、本気で討ち合えばその腕は近藤勇や土方歳三も敵わなかっただろうと、明治以降も生き延びた二番隊隊長の永倉新八は後に語っています。

 

一方明るく子供好きだったとのことで、いつの間にか沖田総司=イケメン剣士という方程式が出来上がりましたが、その出生ははっきりせず、謎が多い剣士の一人です。

しかし、若くして労咳(肺結核)に倒れ、新選組を一躍有名にした池田屋事件以降華々しい舞台からは離れ、大政奉還以降江戸へ転戦する際には病状も進み、完全に戦線から離脱しました。

従軍していた幕府付きの蘭方医・松本良順より沖田総司は完全療養と診断され、彼の自宅で療養し、最期を迎えたとされています。その場所がこの今戸神社近辺と言われています。

 

小説家の創作と言われていますが、沖田総司は死ぬ間際、庭先に現れた黒猫を斬れないと言っていたり、司馬遼太郎の小説の中では「死ねば誰が香華をあげてくれるんだろう」と呟いています。

彼が亡くなってから約150年、彼の最期の場所はご縁を招く招き猫たちで溢れ、沢山の人達が毎日お参りに訪れています。

明るく、人が好きだったと言われている沖田総司も、この神社の毎日の賑わいを楽しんでいるかもしれません。

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