ごく短いシーンが心に残る沼田真佑『影裏』

ごく短いシーンが心に残る沼田真佑『影裏』

 話術に長けている必要などない立場の人であっても気の利いたコメントを期待される風潮というのは、いつ頃から確立したのであろうか。以前は判で押したように「親方の言うとおり前に出ただけです」と答えていた力士のみなさんのトークは驚くほど流暢になり、街頭インタビューの素人さんたちは小学生くらいの子どもでも受けを狙うような発言を繰り出してくる。そんな中、私が最も固唾をのんで見守るのは芥川賞・直木賞受賞記者会見だ。別におもしろいことを言う必要などないのだが、田中・”もらっといてやる”・慎弥という大スターの出現以降、どうしても心のどこかで期待してしまう読者・視聴者は少なくないだろう。

 直近の第157回芥川賞受賞者が、この本の著者である沼田真佑氏だった(直木賞受賞者である佐藤正午氏は会見の場には登場されず、電話でのやりとりのみ)。その後メディアでもよく取り上げられたひと言は、「例えばジーパン1本しか持っていないのにベストジーニスト賞みたいな」。デビュー作での受賞について、感想を求められたことへの回答である。文藝春秋が運営する「文春オンライン」に掲載されている著者へのインタビューによれば、前もって用意していた答えではなく痛感していた気持ちの表れだそう。素晴らしい。

 本書の舞台は岩手。釣りが趣味の主人公・今野と友人の日浅が川釣りをしているシーンから物語は始まる。親会社から異動してきた今野と物流部の日浅は、医療系の医薬を扱う職場で知り合った。親しく言葉を交わすようになったきっかけは、午後の遅い時間に社内の連絡通路の窓際にたたずんでいた日浅の姿を見かけたことだった。職員の休憩スペースを兼ねた幅広の廊下の窓際に椅子を一脚引き寄せ、しかし自分は坐らずに座面に缶コーヒーをのせ、落日に見入っていた日浅を。

 ここは特に劇的な事件が起こるわけでもないごく短いシーンなのに、美しくて心に残る場面だ。受賞の要因として端正な文章が挙げられていたのもうなずける。文章の美しさはとりわけ自然の描写において顕著で、釣り場の情景が一幅の絵のように思われるほどである。

 物語が大きく動くのは、三分の二ほど読み進んだあたりだ。東日本大震災の後少しした頃、今野はパート従業員の西山さんから、日浅が亡くなったかもしれないと聞かされる。日浅を捜そうと手を尽くす日々を経て、今野は彼の実家を訪問するのだが…。今野が日浅について「それがどういう種類のものごとであれ、何か大きなものの崩壊に脆く感動しやすくできていた」という印象を抱いていたという記述が、ここで効いてきたように読める。

 この作品が芥川賞を受賞したときに「震災」と「LGBT」を取り上げた作品であることがクローズアップされたことは記憶に新しい。芥川賞選考委員には評価されたポイントだと思うけれども、否定的な意見もあるようだ。ネットなどで見た限りでは、「震災やLGBTの取り上げ方が唐突・不十分」というものが最も多かったように見受けられた。「唐突」ということに関しては、現実においては必ずしも予定調和な感じで物事が進みはしないだろうから、こういった盛り込み方もアリではないかと個人的には思っている。「不十分」という意見では「震災に遭った人・LGBT当事者が読んで不快に思うのではないか」という懸念と結びついて語られていることも少なくなかった。私はどちらの立場でもないのであくまで予想でしかないのだけれども、著者は決して悪意や興味本位で書いているわけではないと思うし、小説内で読まれることによって震災やLGBTへの理解が深まるチャンスとなるのではと期待している。

 著者は1か月ほど前に2本目のジーパンをゲット(=2作目の小説を発表)されたばかり(「文學界」9月号)。文章力の高さは引き続き注目されている模様。私も(メガネ男子好きとしても)応援させていただく所存です!

(松井ゆかり)

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