「先生」の手紙をめぐるミステリー〜吉田篤弘『遠くの街に犬の吠える』

「先生」の手紙をめぐるミステリー〜吉田篤弘『遠くの街に犬の吠える』

 我々はふだん言葉を使って意思の疎通を図る。声に出して話す場合もあるし、手紙やメールで文字にして送る場合もある。しかし、本書の登場人物である音響技術者の冴島君はこう言う(主人公で作家の吉田さんに向かって語った内容を、少し長くなりますが引用します)。自分が録音技術者という仕事に就いた理由は、『世界は音で出来ているからです。吉田さんは小説を書くひとだから、世界は言葉でつくられていると思われるでしょうが、そもそも、言葉は音からつくられています。というか、言葉の正体は音なんです。音がなかったら言葉は生まれなかったし、音がなかったら文字も生まれませんでした』ということなのだと。冴島君の説が学術的に正しいのかどうかよくわからないが、この小説を読み進むと音とは何物にも代えがたいものだと思えてくる。

 冴島君の左目は水色だ。ある夏の日の草野球、犠牲フライとなった打球が日射しに重なり、12歳の彼の左目を直撃した。色を失った左目は徐々に色褪せてゆき、水色の虹彩を持つように。「右半分は色彩を帯び、左半分は限りなくモノクロに近い奇妙な視界」と引き替えに冴島君が得たものは、さまざまな音を拾う能力。遠くの街の犬の遠吠えを聴き取るような。吉田さんが朗読作品を作ったときに、録音に見事な音響効果を添えた冴島君と、そのとき初めて顔を合わせたのだった。

 吉田さんには白井先生という師匠がいた。白井「先生」とはいうものの、出版社の辞典編集部に所属する編集者である。「一冊の辞典をつくることは、その一冊から省かれたもう一冊の辞典つくることに他ならない」と気づいた先生は、省かれた言葉および事柄を「バッテン語」と呼び、およそ半世紀にわたって通常の業務をこなすかたわら『バッテン語辞典』の編集を続けてきたのだ。そのもとで働いた学生アルバイトたちは「魔法にかかったように」弟子入りを願ったため、いち編集者でありながら先生の弟子の数は112名にものぼったという。おそらく70歳を過ぎて生涯独身を通した先生の訃報が、ある日吉田さんのもとに届く。斎場に出向いた吉田さんは、冴島君もまた先生の弟子であったことを知る。

 『遠くの街に犬の吠える』は、白井先生と彼を取り巻く弟子たちの話とも読める。吉田さんの担当編集者であり冴島君の高校時代の同級生でもある茜(は苗字。名前は喜和子)さんも、彼女と同じ時期にアルバイトをしていて現在は代書屋の夏子さんも、先生の弟子たちなのだ。彼らは全員言葉に関わる仕事に携わっている。言葉を集め、また、吉田さんの朗読作品について「声をつかって伝えてゆくことは、ぼくの仕事にも大いに通じるところがあります」と評価した先生の影響が、いかに大きかったかが偲ばれる。

 本書はまた、先生がある女性と交わし続けた手紙をめぐるミステリーでもある。先生が相手の女性にほんとうに伝えたかったことは何だったのか…。私は恋愛ものにほとんど興味がないし、読み進める途中で先生の人望に対して不審の念を抱き始めたけれど、仮に私と同じように感じた読者の方がいらしたとしてもぜひ最後まで読み通していただきたい。すこし物悲しく、けれど読み手の心まで澄んでいくような素晴らしい恋愛小説だった。

 著者の吉田篤弘さんは、ご存じご夫婦ユニットであるクラフト・エヴィング商會のだんなさんの方(4月5日更新の当コーナーにて、同じ著者の『ブランケット・ブルームの星型乗車券』を紹介させていただきました。よろしければバックナンバーをお読みになってみてください)。主人公と同じ苗字ということもあってどうしても共通点を探してしまうが、実際クラフト・エヴィング商會として短編や架空のCMを吹き込んだレコード『天使も怪物も笑う夜』(世田谷文学館)を作成するなど、音と言葉の関係性には並々ならぬ関心を持っておられるに違いない。

(松井ゆかり)

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