中国オタク的疑問「なんで相互理解で戦争が終わるの?」

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「日中文化交流」と書いてオタ活動と読む

今回は百元籠羊さんのブログ『「日中文化交流」と書いてオタ活動と読む』からご寄稿いただきました。

中国オタク的疑問「なんで相互理解で戦争が終わるの?」

中国オタクに対して比較的受け入れられやすいジャンルの一つに、“軍事ネタ”というのがあったりします。

中国では軍事関係のニュースがわりと重要な扱いになっていますし、(国内、国際と来て次が軍事か財政経済といった順番でしょうか)学校でも軍事訓練が行われたりしていますから、日本に比べて軍事ネタは身近で分かりやすいネタとなっています。

ただ、具体的な“感覚”に関してはちょっとした違いが存在するようで、日本のアニメや漫画に出てくる軍事関係のネタは楽しめるモノではあるものの、不思議に感じたりすることもあるようです。

先日、中国のソッチ系の掲示板で“アニメのなかの戦争と相互理解”といったことに関してのやり取りを見かけましたので、例によって私のイイカゲンな訳で紹介させていただきます。

・ちょっと疑問なんだが、日本のアニメってなんで相互理解で戦争が終わるの?
別にその考え方を否定するつもりはないんだが、あまりにもそれが正しい解答として扱われ過ぎているのはヘンに感じる。

・確かに日本のアニメって“分かり合える”とか“相互理解”みたいなのを重視しているよね。私もそれで戦争が終わるってのは、いくらアニメでも非現実的すぎるとは思う。

・日本アニメや漫画の戦いって、互いに分かり合うことがテーマになるよね。『ガンダム』のNTとか、『マクロス』の歌とかそういったテーマの象徴だ。

・これに関しては自分も非常にヘンな考えだと思っていた。世の中には相互理解したってどうしようもないことが多いし、戦争なんてその最もたるものだろう。

・現実は相互理解じゃなくて相互妥協か相互譲歩だよな。

・相互の理解で止まる戦争ってのは、双方が戦争を望んでいないという前提が必要だよね。まぁアニメなんかだと戦争には不幸な原因があることが多いからな。それか、戦争の黒幕に明確な敵がいるとか。そういった設定の場合はなんとかなるんだろ。

・相互理解と戦争って、適用できる範囲が狭い。せいぜいが“誤解”によって生じた戦争くらいにしか使えないでしょ。

・まぁ、アメリカが「石油と土地よこせ、さもなくば戦争だ。ヒャッハー!」とやってきて、その“戦争の理由”に関して“理解”してもどーしようもないからなー

・これは日本が第二次世界大戦で負けたからじゃないか?
彼らは理解という道筋で戦争を処理するしかなかったんだろう。

・戦争というか、戦いに関する感覚が日本は独特だと思う。“理解”もそうだが、敵が味方になったりする。アニメや漫画やゲームに限らず、こういった物語やルールがありふれている。

・ヘンな話だけど、日本の作品の“戦い”って平和的なんだよね。戦争まで行かなくとも、戦いが理解の手段になっちゃっているところがある。
これは日本の歴史上には異文明や異民族との消滅をかけた戦争の経験がなかったからじゃないかな。あるのはせいぜい第二次世界大戦で負けたくらいだし、それにしたってヒドイ展開にはならず、むしろアメリカ文化を“理解”して新しい発展の材料にしているし。

・そう言えば日本の漫画では殴り合ったあとに友人関係になるというのがお約束になっているね。
これについては、日本人は感情を表に出さず自分の意見を周囲と調整するから、殴り合いまで到達してようやく感情や本当の考えが露出するからだという説明を聞いた覚えがあるわ。

・日本のアニメの相互理解ってのは相手を理解するってだけじゃなく、互いに考え方を転換してみるって部分もあるよ。そこから合意というか妥協点を見出すというのも、一種の“相互理解”じゃないかと。
理想主義的すぎるとは思うけど、こういった目標に向かって人類というか周りの人間を変えていこうとする努力は尊重する価値があるんじゃないかね。

・なるほど。信じるというか、スローガン的なものとしての“分かり合える”という理想は必要だな。そう考えると、アニメの描写もそう悪いもんじゃないのかね。考えてみれば理想主義者が絶対的な作品ってのは少ないし。
実際問題、相手を全滅させるまでの戦争ってのも逆に現実的じゃなくなるし、妥協点を見出す上での理想という意味での相互理解ってのは有用か。

・分かり合えないと言って相互理解を放棄するのもある種の中二病的だろ。「現実はそうじゃない」「子どもの考え」というところで全て否定するのもどうかなーと思う。
てかアニメの中くらい、理想があってもいいじゃないか……

・でもさ、戦争系の作品で戦争を終結させるための手段が“分かり合えるから”というのだと、作品そのものがウソくさく思えてこない?
戦争というテーマなのに、そこだけあまりにも理想的すぎると作品から現実に引き戻されてしまうような気分になってくるよ。

・『ガンダム』なんかで富野由悠季は人が分かりあえるってことや、戦争を止められるってことを言っているが、これはやはり日本の過去の影響からなのかなぁ。個人的には日本が敗戦のあとにアメリカに教えられた人道やら人権やらが見て取れるように感じるんだが。

・現実的には、圧倒的に相手より強くなって戦わずに相手の兵を屈することができるということを背景にしての“相互理解”になるよな。

・『ガンダム』も実際は単純なものではないよ。
初代~『逆シャア』までは“分かり合える”という方向だったけど、『SEED』は“分かり合えない”、『DESTINY』は“正義で統一”、『00』は戦争介入とコントロールに別種の生命体との接触と単純なものにはなっていない。

・NTにしてもアムロとララァは分かり合えたけど、ララァは死ぬし、アムロとシャアはその後ずっとララァの死を引きずるしなぁ。カミーユは分かり合いすぎて精神崩壊、ジュドーはハマーンを拒絶しているし。

・『逆襲のシャア』はわりとシビアに“相互理解”と“戦争”というのを描写していると思うが。
かつて希望を抱いていたシャアは地球の人間に絶望、代表的なNTのアムロは分かり合える能力のはずのNT能力を戦闘分野に特化してしまっている。
最後にサイコフレームの共振でアクシズを押し返すが、結局二人は行方不明。こういうのがあるので私は少なくとも『ガンダム』で描写される“相互理解”については理想主義と笑うことはできないね。

・“理解”という面から考えると、『00』が面白いね。
刹那は最終的にイノベイターという人類から離れた存在になるし、劇場版の敵のELSはそれまでの一応分かり合える人類とは異なる存在で、それとの“理解”は今までとは異なるレベルの話になってる。

・てか、富野由悠季は別に相互理解で戦争が止められるとは言っていないぞ。
『イデオン』や『ザンボット3』見ればそれは明らかだろ……あれは見ると非常に憂鬱になるというか、絶望的な気分になったりしちゃうぜ。

とまぁ、こんな感じで。
日本ではある程度普通に受け入れられているようなところも、中国オタクからすると引っかかったりするようですね。

この辺に関しては、中国オタク的には軍事ネタが“分かる”ネタであると同時に、ある程度身近で現実的な話題であり、マジメに考えるようなものということなどが影響しているのかもしれませんね。

執筆: この記事は百元籠羊さんのブログ『「日中文化交流」と書いてオタ活動と読む』からご寄稿いただきました。

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