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「メッセージよりもスタイルが大事」 若者たちの”お祭りデモ”とは 愛知淑徳大・伊藤昌亮准教授<インタビュー「3.11」第4回>

 「お祭りデモ」、つまり若い人たちのデモも、一応システムを名目上の敵にしているとは思うんですよね。しかし本質的な敵ではないというか、「敵とすること」によって、逆に自分たちの社会性を強めていっているんじゃないでしょうか。「お祭りデモ」の眼目は、敵をどうこうするよりも、自分たちの結束や連帯を高めることにあるという気がしています。

――「社会を創り出す」ためには、まず自分たちが結束する必要があるからですか?

 そうです。本当に「敵」だと思っているのであれば、もっと敵のことを研究すると思うんですが、そういうこともそれほどはしないようです。「敵じゃない」ということではないんですが、そこで掲げられている敵は、やっぱりかつての「市民運動型デモ」の場合とは違うと思います。自分たちの結束・連帯を高め、社会を構築していくためのきっかけとして「敵」が設定されることもあるのかもしれません。

 「フジテレビ抗議デモ」は、そういう意味で興味深い現象です。「脱原発デモ」と構造的には同じだと思うんですよね。もちろんそこには、高円寺的なものと秋葉原的なもの、みたいな、文化資源上の差異、つまりスタイルそのものの内実的な差異はあるとは思うんですが。でもやっぱり両方とも、自分たちが自分たちのスタイルで社会を創りたいという欲求がある。

 「フジテレビ抗議デモ」には二面性があって、その一つには「マスメディア」に対する問題提起が根底に置かれています。マスメディアに支配されている社会に対する「告発」という側面が強く、これはやっぱり「社会運動」的なものでしょう。原発に支配されている社会に対する告発と同様のものです。

 一方で、フジテレビやそのスポンサーである花王を一種スケープゴート(マイナスな感情を逸らすための身代わり)的に取り上げて、自分たちの側の社会の結束を強引に作り上げていく、極端に言うと「プチファシズム」的な側面もないわけではない。

 でも、こういう二面性はどんな社会運動にもあります。脱原発デモであれウォール街デモであれ、一歩間違えるとカルトになってしまう。自分たちで社会を創り上げようとして、その社会性を絶対視するとファシズムになりますから。東電やニューヨーク証券取引所だって、もしかしたら一種のスケープゴートにされているのかもしれない。「フジテレビ抗議デモ」には、その二面性が分かりやすく出ていると思います。

■新しいデモで世界は変わるのか

「さようなら原発 5万人集会」(2011年9月19日)

――メッセージを掲げて「デモ」に集まる若者たちが、集合することによって逆にその目的を見失ったり、彼らの中で変化が起きたりする可能性もあるのでしょうか?

 「集合的沸騰(集合することにより興奮や高揚、激昂状態になること)」が起きて、その中で「社会性が幻視される」と思います。その幻視みたいなものから実際に社会を構築していくことも起きてくるでしょう。たとえば、ウォール街では9月に運動が始まった後、11月にデモ隊のテントなどが撤去されたんですね。でも撤去されて運動がなくなったかというとそうではなくて、ネット上でまだ運動をやっているんです。『ジェネラル・アセンブリー』もワーキング・グループもそのままネット上に移行して、サイト内で議論が続いています。

 デモの「集合」の中で「新しい社会が見えた」という幻視、一種の至高体験をしたとき、その至高体験が日常の中で別の形をとり、広がっていくこともあるでしょう。デモに参加することで高揚を得て、幻として一種の社会像を垣間見た人たちが、日常に帰って新しい価値観を提示していく。それが色々な場所で小さな実践として積み上がっていくと、本当に世の中が変わるんだろうなと思います。

――「幻視」とは「夢を見ていること」とは違うのでしょうか?

 夢を見ているというか、「幻として垣間見る」こと。新しい社会の仕組みなんて、創ろうとしてもなかなかはっきり見えないじゃないですか。それを、デモをする際に皆で集まって、そこで「理想が見えた」と思うこともあるでしょう。デモそのものはシンボリックなものだと思うんですが、そこで得られる感情を日常の中で分散しながら実践していき、それらが繋がっていくと本当に社会が変わるんだろうなと思います。

 その感覚を忘れないうちにまた集まって、デモをやって、維持していく。デモという「象徴」と、その背後にある「日常」との往復運動を繰り返していくことで、新しい価値を見つけていくんです。

――現在でも続いているデモでは、デモをすることで得られる感覚を確認して強めることが目的になっているということですか?

 当人たちは、もちろん「原発反対!」ということでやっているんだと思いますが、デモの場で確認して確信したものを日常に持って帰って、それが枯れる前に皆でデモをして集まって、確かめ合う行為は必要になるんじゃないでしょうか。エネルギーや高揚体験、政治的なものになる前の、感情的なものだったり文化的なものだったりする新しい価値。それを世の中に持って帰った人たちが、会社を創ってもいいわけですし、NPO(非営利団体)を立ち上げてもいいわけです。仕事を含めて、日常で新しい価値を広めていくことです。

 『デュアルパワー(二重権力)』というレーニンの言葉があります。ウォール街デモの人たちもよく使う言葉なんですが、要するに、既存の権力を打ち負かすことが「革命」なのではなく、むしろ別の「力」を創り上げていって、その既存の力と新しい力が「二重」にある中で、「新しい力」が強くなっていけば、新しい力の方向に否応なく世の中が変わっていくということです。

 長い革命をするための戦略論だったんですが、ある意味で、その「新しい力」を創り上げていくためのシンボリックな集いが「デモ」なんだと思います。デモの中で承認し合ったものを皆が持ち帰れば、既存の国家や組織は打ち倒されるというよりも、どうでもいいものになっていきます。そこまで「新しい力」を強めることは相当大変なことだとは思いますが。

 新しい力を勝手に創り上げていくことを実践しているのが、ウォール街デモの人たちなんですが、でもそこにはやっぱり危険があって、極端な方向にいけば『オウム真理教』みたいになってしまいます。可能性もあれば危うさもあるのですが、そういうことをやっていかないともう仕方ないんじゃないでしょうか。アメリカでもヨーロッパでも日本でも、あるいはアラブ諸国でも、そういう模索をしていかないと立ち行かないところまで来ています。

 どんな社会運動でもそうですよね。フランス革命でも、ロシア革命でもそうでした。まったく新しい社会を創り上げようとすると、それが急進的に変な方向にいってしまうのは何度もあったことです。社会を創ることには付きものの「怖さ」というか、危険性です。「だから社会を創ることはダメか」というと、そうなると何も創り出せないので、時間をかけてゆっくりとやるしかありません。

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