殺し屋オーラヴの魅力が詰まったネスボ『その雪と血を』
──人は何をきっかけに、自分は死ぬのだということを理解するのか。(中略)もちろん理由は人それぞれだろうが、おれの場合は親父が死ぬのを見たから、それがどれほど平凡で物質的なことかをまのあたりにしたからだ。蠅がフロントガラスにぶつかるみたいなものだった。
ノルウェー作家ジョー・ネスボ『その雪と血を』(鈴木恵訳)の主人公〈おれ〉ことオーラヴ・ヨハンセンは殺し屋だ。主たる契約相手は麻薬業者のダニエル・ホフマンである。ホフマンには〈漁師〉と呼ばれる商売敵がいて、その部下の一人を彼が撃ち殺す場面から小説は始まる。オーラヴが非常に現実主義的なものの考え方をすることは、上の引用でもよくわかるが、虚無にとりつかれているだけの人間ではないというところがおもしろい。
彼が殺した男が流した血が雪の中に消えていく場面をお読みいただきたい。
──おれはその血が雪の表面で凍りつくだろうと思った。表面で固まるだろうと。ところが雪は血を吸いこんで、何か使い途があるかのように、奥へ隠してしまった。帰りの道を歩きながら、その吹きだまりから雪だるまが起きあがってくるところを想像した。死人のように白いその雪の肌の下に、血管がくっきりと見えるところを。
この空想癖がオーラヴの特徴である。彼の子供時代にこんなことがあった。発熱して寝込んだところ、母親が図書館から本を借りてきてくれたのである。ヴィクトル・ユゴー『レ・ミゼラブル』である。発熱中の彼は、夢うつつの状態でそれを読んだ。読書の中で「ヴィクトル・ユゴーは正直に語っていない」と感じたオーラヴは、ジャン・ヴァルジャンは単なるパン泥棒ではなくて人殺しだったが、それを告白すると読者に応援されなくなるから噺を改変したのだと考える。そして物語全体を頭の中で書きなおすのである。この癖はずっと残り、彼は現実世界で遭遇した出来事も自分なりの書き換えを行うようになる。
登場するなり「おれにはできないことが四つある」とオーラヴ言わせて(それも『逃走車の運転』とか『強盗』とか、一般人にはだいたいできそうもないことばかりだ)煙に巻き、「せずにすめばよいのですが」タイプの消極的な人間かと思わせておいて、実はできることならばきびきびとやる能動的な主人公だと明かしていく。作者の語りの技術によって読者はあっという間に魅了されてしまう。
物語はダニエル・ホフマンがオーラヴに、自分の妻を殺すように命じたことから動き出していく。この妻のコリナがブリジット・バルドー風の唇を持ち、猫のような爪先立ちの歩き方をするという美女なのだが、標的の動向を観察しているうちにオーラヴは名案を思いつき、それを実行に移す。なにしろ現実主義者であって、行動家だから。ところがそのことから、ダニエルとの関係がおかしくなってしまうのだ。
ハヤカワ・ミステリの収録作としては短い部類に入る。だからこそ魅力が濃縮されているともいえる。同じレーベルから出たデニス・ルヘイン『ザ・ドロップ』もそうだったが、「長さに安心して一気に読むと、長い長いためいきをついて、もう一度読み返したくなる」犯罪小説なのだ。ジム・トンプソン『残酷な夜』『死ぬほどいい女』あたりのやるせない味の作品が好きな方だったら絶対にお薦めである。トンプスンほどブチ切れてはいないが、オーラヴという語り手が連れて行ってくれる境地はそれに近いものがある。中盤の雰囲気でこれに近いと思ったものをハヤカワ・ミステリの中から選ぶと、固めの手触りであればノエル・クラッド『ニューヨークの野蛮人』、標的を扼殺するのが得意な殺し屋を主人公とする作品である。柔らかめなものでは、オフビートな展開が魅力なA・W・グレイ『復讐のギャンブラー』といったところだろうか。
要するに、ちょっと古風な匂いがするのである。ジョー・ネスボはノルウェーを代表するミステリー作家の一人で、日本では『ザ・バット 神話の殺人』(集英社文庫)をはじめとする〈刑事ハリー・ホーレ〉シリーズが多く訳されている。英語圏の作品を多く読んでいる節があり、本作も長大化路線に入る前の犯罪小説、いわゆるパルプ・ノワールを意識して書いたものだろう。それらの作品群に共通していたものは、世の中は狂っている、だから狂いながらそれを記述していくしかないという醒めた自意識だった。ネスボはそこにユーモアのセンスを付け加え、オーラヴという愛さずにはいられない主人公を配置した。
オールド・ファンも新しい読者も、ぜひその魅力にやられちゃってほしい。
(杉江松恋)
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