『千日の瑠璃』17日目——私は黄昏だ。(丸山健二小説連載)
私は黄昏だ。
脅迫染みた光と色を放ってうたかた湖に迫りながら、併せて遣る瀬ない影をもばら撒く黄昏だ。ほどなく私は、飲まず食わずで半日ものあいだ同じベンチに腰をおろし、水のほかには何もない山上湖を眺めている老人に、二者択一を迫る。家へ帰るのか、それとも、死ぬまでここにとどまるのか、と。しかし彼にはもう、くどくどと同じことばかり繰り返す元気もない。若い盛りには甲斐甲斐しく働く、口数の多い男だったのだ。
私はいくらか口調を和らげて、どんなに待ってもきょう中に白鳥が飛来することはない、と言ってやる。すると、あらぬ方を見やる老いぼれの嘆声が、二つ三つ砂の浜にころがる。それはやがて、衰えた彼の眼では識別できぬほどはるか沖へと波に運ばれて行く。そしてしばらくすると、友の来世への安着を知らせる波が足元に届く。
私にはわかっている。彼がそうやって待ちつづけているのは、まほろ町のひと冬を美しく彩る候鳥でもなければ、不承不承迎えにくる家族でもない。そんなに死にたいか、釣り竿を握ったまま絶え果てた友がそんなに羨ましいか、と私はそう訊いてから、水と大気とそこかしこに漂う抗い難い切実さとを茜色に染め、ついで、血の色に染めてやる。それから、私にもたれかかり、ひたと寄り添ってくる薄汚れた年寄りを払いのける。彼はまたもやベンチに没入し、哀感を一段と深くする。
(10・17・月)
ウェブサイト: http://marukuen.getnews.jp/
- ガジェット通信編集部への情報提供はこちら
- 記事内の筆者見解は明示のない限りガジェット通信を代表するものではありません。