藤代冥砂「新月譚 ヒーリング放浪記」#28 旅すること
これからは、セルフヒーリングの時代だと思う。患う前に、心も体も自分で手入れをし、それでも調子を崩してしまったらなら、それに対応する術をいくつか持ち合わせておく。こう書くと、至極当たり前のようだが、これまで多くの人々は、自分のことなのに、病気を医師任せにし過ぎてきたように思う。日々の仕事の多忙さに、自身を省みる時間を失い、廃品のようになっていく様をなす術なく見送っていくのが、人生の一面だとしたら、それはあまりにも無策ではないだろうか。知恵の使い方を忘れてはいまいか。この連載は、ヒーリング放浪記という副題があるように、様々な癒し方を、野で花を摘むように当て所なく紹介してきた。どれかひとつでも心に留まることがあったなら、それを是非試してもらい、セルフヒーリングの一助となることを願っている。
私は、常々、セルフヒーリングというのは、大げさにいうならば、生命維持活動として当たり前であると同時に、とても人間的な知的な行為だとも思っている。いろいろ突き詰めていくと、人間が分化させ発展させてきた学問も最終的には、いかに自分自身を快適に保つかという、セルフヒーリングに繋がっていると考えている。
それは、思考の果ての結果内容がヒーリングに活かされるという意味でもあるし、思考するという行為自体がヒーリングと言える面からする双方においてだ。思考というのは、思いを巡らせるという言い回しがあるように、巡らせることなのだ。巡らせること。それはヒーリングそのものだ。
ヒーリングというのは、突き詰めると、滞らせず、常に巡らせておくことを目指す考え方、行為である。緊張というのは、どこかを萎縮させ、筋肉や思考を固くし、体液や気の流れを滞らせてしまう。結果、不調に繋がってしまう。リラックすることの重要さは、滞らせないためにある。
要は、それぞれが、自分の好みに合わせて、自分自身全体を適度に緩ませ、固まらせずに常に巡らせておくことが、ヒーリングのポイントとなる。
繰り返しになるが、常に巡らせておくこと。これがセルフヒーリングにおいて、最も大切なことだ。
巡るという言葉から繋げて、今回は、「旅」「旅行」を取り上げてみたい。
最近気づいたことだが、私は人に会うと、よく「どこか行きましたか?」と質問していることが多い。知らずのうちに、移動すること、旅行、旅することを気にかけているようだ。
住み慣れた場所から、いったん離れて他所へ行くと、様々な楽しさを発見する。食べ物、風習、季節、風、言葉、色使い。それらの違いを肌で感じると、自分に心地よい揺さぶりが入る。自分の個性などという、ありもしない張りぼてをでっち上げてしまいがちな日常を離れると、そういう馬鹿げた人工物に揺さぶりが入り、割とあっけなくヒビが入ったりする。それは極上の経験ではないだろうか。
固定化、つまり滞ろうとする自分に亀裂を入れることは、とても創造的だし、知的なことだ。別に知的であることを上に見るつもりはないが、揺さぶりと楽しむという精神の位置は、肉体的というよりも知的という言葉が親しむ。
そういった心への影響により、滞りが抜けることも旅ならでは、と思う。その一方で、やたらと歩くことも体の中の様々を巡らせるという意味で、わかりやすく癒しへと繋がっていく。
つまり心身を手っ取り早く刷新しようと思うなら、旅に出るのがいい。彷徨い、失い、刻々と新品になっていくのだ。
そのためには、あまり下調べも越さないことだ。それらによって団子状に並んだ旅の目的とやらを、順番にこなしていくことは、団子という過去の自分の典型をナゾルだけであり、ちっとも自由ではない。壁に貼られたノルマ表にチェックを入れてからタイムカードを押すのと何ら変わりはない。決して綿密に企てられた旅の計画を全面的に否定はしないが、私たちの自由には、やはり空白が必要なのだ。
時には倒した棒が示す方向に、朝の一歩を踏み出す酔狂が欲しい
いや、酔う必要はないのだが、酔うにしても、自分を忘れること、忘我が楽しいのだから、遠い言い回しではない。
さておき、旅とは、ヒーリングである。
先日、京都に息子を連れて遊ぶ機会を得た。午後から書店への新刊を携えた挨拶めぐりという仕事があったので、午前中のわずかな時間を使って、ぶらりと歩くことになった。午後から書店への新刊を携えた挨拶めぐりという仕事があったので、午前中のわずかな時間を使って、ぶらりと歩くことになった。
ぶらり。この感じがきっと旅なんだろう。あくせく、と対語になるが、ぶらり、が大切だ
烏丸通りを北上し、北大路あたりでバスに乗り換えて、上賀茂神社へとなんとなく赴いた。漠然と北へと向かおうと思いついただけのことである。
バスからの風景というのは、いったい何歳になるまで楽しいのだろう?私は、現実から少し上ずったような不思議な高みから、流れる風景を眺めるのがとても好きで、それは十歳の息子ととて同様、二人してぼんやり、かつウキウキしながら、上賀茂の風景にもたれかかっていた。
賀茂川の風情は、三分咲きとラジオが言う桜の色と相まって、沖縄を住処とする自分の目にちょっと感傷的に映っていた。
桜を見ると、私はすでに異邦人となっていることを実感する。沖縄にはソメイヨシノの類はないので、春の桜を、まるであの世から戻った魂で見るかのように感じてしまう節がある。
さしづめ、バスは異界からの船となって、父子を乗せて上賀茂を遊覧するのであった。その時に生まれて初めて、三分咲きの桜の美しさを知った。そればかりか、二分の、六分の、挙句は、未開の桜の美しさも、心の中に広がって、それぞれ美しさを放つのであった。私の中の何かが巡ったのである。
終点の上賀茂神社で降りると、饅頭やの看板に惹かれたが素通りして、参拝へと向かった。
何度目かの参拝だったので、見覚えがある所もあるのだが、季節と天気が違ったのだろうか、新参の気分が占めていた。
広々とした開放的な参道を進み、赤い門をくぐって本殿へと進むと、確かに以前に来た所であった。以前の時とは違って、アジアからの旅客も多く、人の営みの流れを感じた。
京都というのは、都が定められたほどに、名水の土地でもある。上賀茂はその象徴のひとつであり、神域から流れてくる小さな流れが上賀茂神社を横切っている。その流れに沿って歩けば、いくつかの摂社に巡り合わせることとなる。ここでは、その名を伏せるが、そのうちの二つにとても感銘を受けた。
その場にたたずめば、自分の中心を支えているものが、緩むのがわかった。場に感応したのである。
そのうちの一つは、龍に縁のある神様が祀られていた。龍は、水の神様でもある。そして息子の名前でもある。
もう一方は、癒しの神様が祀られていた。
体感のあとで知った、それらの解説のせいでもあるのだろうが、本日はここへと導かれていたのだなあ、と納得し、小さな川で手を清めてから、上賀茂神社を去った。
水が流れている場所、波が寄せる場所、雲が立ち上がる山の懐。それらのいずれかは、自分を巡らせるきっかけを与えてくれる場所だ。初めて訪れる土地では、そういう巡りのある場所を意識して、できるだけ訪れるのがいいだろう。
上賀茂神社を去ったあとで、北大路のうどんや綱道で昼食をとった。
看板に、うんどん、そばきり、と出ているように、麺ものを出してくれるのだが、これがとびきり美味い。庶民店なので、千円あればお釣りがくる。
カウンターの六人向け小上がりがあるだけの小さな店だが、名店である。前回同様、小上がりに胡座でいただいた。讃岐でうどんめぐりをしたこともあるほどの好き者なのだが、讃岐とは麺の太さが違って、ここならではの、細平打ち麺とつゆとの絡みが素晴らしく、また、そばも美味い。
うどんの後は、近くの商店街にある赤い看板と内装の自然派アイスクリーム屋さんで休憩した。どちらも地元の友人に教えてもらったのだが、これもまた巡り合わせと言えよう。
旅は、ゆるゆると行くものであると、空白を埋めようとせずに、成り行きに任せるのも楽しい。そもそも成り行きとは、自分を手放すことである。しがみつかないことである。旅が癒しとなるのは、そこからだろう。
暮らしも旅のようであるといい。
日々、新しいその日暮らしをしたいものだ。経験というのは、過去のことである。経験というのは、無価値ではないが、それほどのものでもあるまい。たかだか未熟な一人が、手をこねて握った細やかな砂粒に過ぎないと私は思っている。
関取の塩のように、土俵やら、人生とやらの虚空に放り投げて、手を打ち払っておくのが始まりとなるだろう。
巡らせること。それを続けるなら、私たちはいつも新品でいられる。
(つづく)
※『藤代冥砂「新月譚 ヒーリング放浪記」』は、新月の日に更新されます。
「#29」は2016年5月7日(土)アップ予定。
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