大相撲、あるいは北の湖理事長の、孤立無援について(king-biscuit WORKS)

大相撲、あるいは北の湖理事長の、孤立無援について(king-biscuit WORKS)

今回はking-biscuitさんのブログ『king-biscuit WORKS』からご寄稿いただきました。
※この記事は2008年2月19日に書かれたものです。

大相撲、あるいは北の湖理事長の、孤立無援について(king-biscuit WORKS)

大相撲はショーだ。だからきびしいしごきによって、あらゆる技能を身につけ、危険を克服してから、それを見せるものにしているんだ。その見せる相撲をまねるから、あぶないものになるんだ。

いま、相撲は気の毒である。

あらゆる意味で損な役回りに追い込まれている。申し訳ないが、まるで今のこのニッポン、われらが「戦後」のなれの果ての現在のいちばん情けない部分、ダメなところをまるごと体現してしまっているかのようなていたらく。同情を禁じ得ない。

それは相撲そのもののせい、というわけでも、おそらくない。相撲好きというわけでもないあたしの眼から見ても、ああ、これはある意味時代の必然、世の中がうつろい行く中でたまたま、ほんとに何かのはずみでそういう役回り、運命の中に巻き込まれてしまった立場の不幸。そんな立ち往生にも似た戸惑いを抱えて、しかしそれでもおのが身のさばきすらもはやままならない不自由。もうただ、気の毒、としか言いようがないのだ。

土俵で目立つのは外国人力士ばかり、というのはいまさら改めて言うまでもない。それでも「品格」の欠如と素行の悪さばかりが話題になる横綱朝青龍に頼らなければ、客が呼べない。ひと頃の若貴ブームも今は昔、このところ人気はずっと長期低落傾向、国技館の入場人員始め、まず興行としての成績自体、どうにも芳しくない。聞けば、日本人の新弟子すらいなくなりかねない由。かてて加えて、週刊誌以下、いまどきのマスコミの「八百長」攻撃が長らく下地をこさえてきていたところに、今度は、ああ、なんと時津風部屋で若い力士が親方や兄弟子たちから金属バットやビール瓶で殴られた末に急死という、正真正銘の刑事事件まで発覚。親方以下、逮捕者を出す始末。なんだ、昔ながらの「しごき」「かわいがり」での事故じゃないか、ですませてもらえないのがいまどきのニッポン。事実、昔とは違う何ものか、がそこには介在しているはずなのだが、しかし、相撲の現場にそれを自ら解きほどくだけの器量もなく、何かもう、お祓いでもした方がいいのでは、と言いたくなるような八方ふさがり、全方位暗剣殺状態ではある。

その四面楚歌まっただ中の文科省管轄公益法人、日本相撲協会を率いているのが、北の湖敏満理事長。言わずと知れた大鵬、千代の富士と並ぶ「戦後の大横綱」、「花のニッパチ」と称された昭和五〇年代の相撲ブームの立役者のひとりである。ここ一年あまり、あの朝青龍の不行跡のたびにメディアに顔をさらすことになり、現役時代以来、あの持ち前の仏頂面と無愛想ぶりからいまどきの世間の反感を買い、さらに今回の時津風部屋の事件では対応のまずさや発言の不用意さまでがさらに浮き彫りになり、いまや理事長としての資質まで問われ、相撲凋落ののようにさえなっている。

にも関わらず、今月初めに行われた協会の役員改選では理事長として再選。特に対抗馬などが出たという話も聞こえなかったから、相撲界としても今の北の湖体制に代わる選択肢は提示できないということらしい。しかし、すでに世間の眼はいまや相撲そのものが時代と絶望的にずれてしまっていることの象徴として、メディアを介した北の湖理事長一連の発言から一挙手一投足までを、見るようになってしまっている。

そこに共有されている気分、ああ、こりゃもうどうしようもないなあ、という感覚は、おそらく今の政治家や官僚に対して抱かれるものとも、どこかで通じている。少し前まではそれでもまだうまく機能していたらしいもの、わざわざそこまで違和感を抱かなくても、まあ、そういうものらしい、くらいでやりすごせていたようなものが、もはやかくも煮詰まりきって、自前ではもう再び活力あるものにできなくなっているらしい、という認識。かつては優美な身のこなしを見せ、事実こちらもそれなりの敬意や信頼も抱いていたしなやかな大型動物が、老いなのか寿命なのか、とにかく見苦しくのたうちまわって衰えてゆくさまを眼前でじっと眺めているしかないような、そんなやりきれなさ。

「戦後」と言い、あるいはいまどきの若い衆ならば「昭和」と粗っぽくひとくくりにしてしまうのだろう、そんな「少し前までのあたりまえ」の中に安住していたさまざまな“もの”や“こと”、それらがそれぞれの運命の中、いろいろな形の気の毒を体現し始めている。相撲もまたそんな現在の中に、なすすべもなくたたずんで、かつてのような同情も共感も寄せなくなった世間の視線にいいように蹂躙されている、それがいまのニッポンの相撲、らしいのだ。

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そもそも、相撲というものにいま、われらニッポン人はいま、この状況で、果たしてどのように考え、向かい合えばいいのだろう。

なにしろ「国技」、である。少なくともそう言われてきている。文化として芸能として、はたまたスポーツとして格闘技として、それぞれ意見や立場はあるだろう。だが、そもそもこの二一世紀の現在、ニッポンの〈いま・ここ〉で相撲を本当に静かに、穏当に省みるということは、実はそれ自体もうかなり難しいことになっていたりする。それくらい、いまや相撲というのは〈いま・ここ〉からかけ離れた存在になっている。

ならば、そんな相撲の現在を理解する上で、多少は役に立ちそうな断片をひとつ。

「お相撲さんというのは「拝まれる」ものなのである。特にお年寄りはお相撲さんを目のあたりにすると例外なく拝む。そしてお相撲さんも、拝まれる存在としての自分を認識していなければ大物力士とは言えまい。どんなに過剰なもてなしを受け、拝まれ感極まって泣かれようが微動だにせず、その歓待の荒波をどんと受け止める器量が必要だ。相撲界のものすごく特殊ないろんなしきたりの中には、プロスポーツとして非合理的なものも多々あるが、きっと「拝まれる」存在に成り得るためには必要なことなのだろう。」(ナンシー関)

明快だ。われらニッポン人にとっての相撲の意義というやつをほぼ過不足なく、端的に表わしている。ここまででも十分なのだが、ほんとにすごいのはこの次。こうだ。

「お相撲さんというのは、その拝まれ方において天皇陛下に似ていると思う。」

真の知性というやつは多言無用、いつもこういう具合にただ一発で、ものごとにひそむある本質を、さらりとえぐりとってくる。

だから、ここは引き取って続けなくてはならない。そういう風に「拝まれる」存在であり続けてきた相撲とり、そして相撲そのものに対して、いまやその「拝む」側の意識からしてそろそろ本当に変わっちまっているらしいこと、これだ。

それは単に崇拝するとか、仰ぎ見るといった通りいっぺんの言い方で片づくものでもない。そんないわゆる信仰や信心といった側面から“だけ”相撲を、「国技」や「伝統」を語ろうとしてきた弊害は、ここにも顔を出す。たとえば、かの内舘牧子、いまや何の間違いか横綱審議会委員にまでさせられてしまった御仁がごていねいにも東北大学大学院まで行って学んだという「相撲」にしても、しょせんはそんな乾いた字面におさまる範囲での相撲でしかない。

相撲というのは、ニッポン人にとってのそれは実は、そんな味気ない字面より、もっとはっきり具体的な生身を介した「力」や、「色気」や、「男らしさ」や、「信頼できる人格」や、何でもいいがそういうもろもろ、われらニッポン人のココロの中に未だ気づかないうちにさしはさまれてしまっている、この列島のこの環境で生きてゆく上での価値観、世界観から美意識などと、どこか抜きがたく関わっている。だが、その関わり方自体が、いよいよこれまでと違う形になりつつあるらしい。そのことが今、目の前の相撲にまつわるあれこれにわかりやすく現われている。先のナンシー関のもの言いを借りれば、相撲とりをつい「拝んで」しまうような「お年寄り」というやつが、本当にもういなくなり始めていること、いや、それどころかそんな「拝む」気持ち自体がわれらニッポン人の間からさえ、もう由来も形もわからないものになりつつあること、である。

そんないまのニッポンの世間の〈いま・ここ〉に、あわれ、北の湖はひとり、孤立している。こんな四面楚歌の大相撲を支える立場、日本相撲協会理事長の重職はどうやらいまのところ、この自分が歯を食いしばって引き受けるしかない、おそらく彼はそう思っているはずだし、そしてどんなに逆風であれ、そのめぐりあわせに殉じる覚悟でいるはずだ。

だが、しかし、その思いを受け止め、支えてくれるような世間はおそらくもう、期待できない。現役時代の面影をまだはっきり残したあのいかつい顔と、自分の喜怒哀楽がうまく出せず、だから内面も容易に外からうかがえない武骨なその表情からは、かつてならば世間は「男らしい」「でんと構えた」貫禄、といったものを読み取ってくれたかも知れない。だが、いまの世間の視線からは、すでに「頭の悪い鈍感なオヤジ」「旧弊な師弟関係で育った昭和の遺物」としてしか映らなくなっている。そしてそれらの違いをもたらしている、この時代というやつの本当のうつろい方については、当の北の湖はもちろん相撲協会自体、いや、それを管轄する立場にいる文科省でさえも、本当のところはよくわかっていないはずなのだ。

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北の湖敏満。昭和二八年(1953年)六月、北海道は有珠郡壮瞥町出身。初土俵は昭和四二年(1967年)一月。なんと、一三歳と七ヶ月、中学校一年の三学期にすでに土俵にあがっている。年表的には、高度経済成長まっただ中、ということになるが、しかし彼は北海道の、洞爺湖のほとりの生まれ育ち。そういう当時の大文字の「豊かさ」との距離感はいま、考える以上にあったはずだ。

何よりこの時期、相撲界もそれまでとは大きく変わりつつあった。

「大相撲の社会に近代化制度が完成したのは昭和四三年二月だった。(…)一般社会なみの月給制と力士整理案が実施された。(…)幕下まで二五場所以上の者は廃業。十月、新弟子養成機関の相撲教習所、設置。」 そもそも年六場所になったのが昭和三三年。翌三四年には新弟子検査基準が厳格化。三五年、行司定年制導入、きまり手七十手も制定される。三六年、年寄定年制実施、その他若者頭などにも同じく定年制が。四二年には枚数制限で「関取」の人数が減らされる。四〇年には部屋別総当たり制度が導入され、これによってそれまで部屋を越えた結束のあった「一門」意識が薄れてゆくことに。さらに四三年には古い相撲制度の象徴だった取締役を廃止、勝負検査役も審判と改称、協会の組織全体をまるで企業のような各部制に改組している。「ことほど左様に、近代化のためのちょん髷の土俵が、いよいよつまらなくなりつつある。人間、賢くなると面白くなくなる。そんな賢いものが、そろって戦後大相撲黄金時代の最中に決められたとは、何とも皮肉な話だった。」(石井代蔵『真説 大相撲見聞録』)

北の湖が相撲界に入ったのは、そんな「近代化」まっただ中の時期だった。

「北の怪童」と呼ばれた。その「怪童」というもの言いが、字面も含めてまだ何かしらある感慨を人々の間に呼び起こすことのできた、おそらくは最後の時代だった。そして、彼自身、それにふさわしい得体の知れないなつかしい「異人」のたたずまいを漂わせた子ども、でもあった。

ちなみに、彼より二歳年下の江川卓が作新学院で注目を集めるようになったのは、それから約五年後。だが、すでに「怪童」という呼び方はされなくなっていた。同じプロスポーツ界、期待の大物新人に対する世間の視線の、この間の落差というのは、「戦後」を考える上で実はないがしろにできない、ある“亀裂”をはらんでいる。

手塚治虫の『鉄腕アトム』に、「天馬族の砦」というエピソードがある。初出は昭和三三年。宇宙人が北海道に舞い降りて、半人半馬の姿を借りて地元の「怪童」と仲良くなる。その子どもが東京のアトムたちの中学校に転校してくる。「団 栗太郎」という名前のその彼は、弊衣破帽に下駄ばきで、生のダイコンやイモをバリバリかじる、まさに「蛮カラ」野生児。昭和三年生まれの手塚にとって、それはかつての相撲とりの姿でもあったはずだし、さらに言えば、あの駒形茂兵衛の姿などとも重ね合わされるような、ある時期までのなつかしい「青春」の定型として抱え込まれていたものだったはずだ。もちろん、当時それは決して「青春」と呼ばれるようなものではなかったにせよ。

相撲とり=力士とは、かつて正しくそのように「異人」であり、そして共同体の視線が結ぶ先、時に立ち上がる「怪童」でもあった。それは何も小難しい大文字の術語を介さなくても、正しく生身で具体的で、何より日々生きるわれらニッポン人の気分の最も身近に、常ならざる存在としてそこにいるもの、でもあった。だからこそそれは素直に「拝まれる」存在、でもあったのだ。

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北の湖と同じ、昭和二八年生まれの同世代のニッポン人を並べてみる。

中島梓、梨田昌孝、関根勤、小林よしのり、竹下景子、阿川佐和子、藤波辰爾、山下達郎、テレサテン、研ナオコ、小林幸子、落合博満、政界には岡田克也、中川昭一、船田元……ひとつ年上には、村上龍、三浦友和、坂本龍一、イッセー尾形、中島みゆき、桃井かおり、さだまさし、松阪慶子、井筒和幸、ひとつ下だと、中畑清、松任谷由実、古館伊知郎、秋吉久美子、そして安部晋三など……。

これらの名前を眺めながら、さて、われらが北の湖の顔を思い浮かべてみる。

とても同世代とは思えない。同じプロスポーツ系の落合や藤波ならまだしも、それ以外の顔ぶれとは、まさに時代が違う印象。なんとまあ、小林よしのりとも同い年。同じ北海道出身なら中島みゆきもいるけれども、あっちは札幌の開業医の嬢さまで女子大まで通っていて、こちとら有珠山のふもとの農協脱穀係職員の七男坊ときちゃあ、あまりに格が違い過ぎ。ましてや、山下達郎や竹下景子、阿川佐和子ときた日にゃ……いやはや、言葉もない。

「世代」というやつは、常にこのように膨大な、個別具体の「格差」をはらんでいる。しかし、同時にまた「世代」である以上、ある共通項を背負わざるを得ないものでもある。その「格差」自体、個別具体の生身に依拠しているものである限り、その共通項との距離もまた、同じ「世代」の内側でまた別の発酵を日々の速度でしてゆくものだったりもする。かくて、常に「世代」論というやつは、個別具体と共通項との間に引き裂かれ、穏当なものさしとして機能しにくくなってゆく。

要するに、「学校」をくぐらずに大人になった、そのようにメシを食わざるを得ない世界に子どものうちから身を置くようになった、そんな最後の世代のひとりなのだ、北の湖は。事実、文部省から、中学生が土俵にあがることまかりならん、と通達が出されたのは北の湖入門後の昭和四六年。「子ども」が「学校」と合わせ技で遍く「平等に」保証されるようになってゆく過程が「近代」だとしたら、そのような「近代」が「戦後」の過程でようやくニッポンの全域を覆い尽くしてゆく、その最後の残余の部分に、北の湖は「怪童」としてうっかりと屹立していた。

地方競馬の世界でも、今の四十代の騎手たちの中には、そんな「むかし」を生きていた世代がまだかろうじて現役でレースに乗っている。今も「異人」ぶりを漂わせる彼らもまた、北の湖と同じく、中学にあがるかあがらない頃からうまやに暮らし、馬にまたがって生きてきた最後の世代。相撲部屋と厩舎というのは相似形である。それは共に、かつての親方子方の縁から近代の納屋制度をくぐって、われらニッポン人がこの列島で肩寄せ合って暮らしてゆく上で何とか共に知恵を出してきた、そんな果てのある価値観や世界観を濃厚に宿してきた場でもある。「徒弟制」と言い「封建的上下関係」と大文字の術語でひとくくりに理解するのもいい。だが、それはおそらく他の世界、それ以外の仕事でもそういう「むかし」は、程度の差はあれ〈いま・ここ〉に織り込まれているはずのものだ。それは、ニッポンがまだその程度に青年期の近代と地続きで、その中で育った生や身体があたりまえにそこにあった「歴史」の証しに他ならない。封建的な徒弟制度、個人を無視した古くさい束縛、などと呼ばれるのはまさにその通り。しかし、それがどうした。それを難じるのならば、全く同時に、同じ情熱でもってそれらが〈リアル〉であり続けてきた所以についても等しく視線を注げないようならば、思想信条がどのようなものであれ、いまどきなお「伝統」や「国ぶり」などとは、とても恥ずかしくて口にできないはずだ。

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だから、北の湖の直面している気の毒とは、そんな彼がいま、この時期このタイミングで大相撲の理事長であり、他に替わる人材もどうやらいないこと、そしてそれらも全部ひっくるめて、なお彼がひとりで全てを背負わねばならなくなっていること、に他ならない。

正直、彼では今のこの相撲が巻き込まれている難局に対処するのは、おそらく無理だろう。それは彼にその才能がないというのではなく、いまの相撲と相撲に象徴される何ものか、それ自体がもう自分だけの力で自己再生してゆくことができない、ということなのだと思う。

いまどきの若い衆ならば、「昭和」とひとくくりに呼んでしまうかも知れない、〈いま・ここ〉とはすでに違う世界に一歩足を踏み込んでしまった、そんな距離感を介してしか語られようのない現実。別の言い方をすれば、すでに「歴史」の側に下写りを始めている眼前の〈リアル〉を、未だ北の湖は、そして相撲は生きていたりするのだ。

畳と正座の暮らし、定地水稲耕作の「農村」がデフォルトで、何より国民同胞の多数が「農民」であった時代、そんな国ぶり、そんな「文化」を前提に始めて成り立っていた芸能のひとつ、それこそが相撲だった。「国技」というのもそのような「文化」との密接な関係があって、初めて何ほどかの意味を持つようなものだった。

戦前からの相撲記者だった彦山光三がこう言っている。相撲とりの身体と、その所作の「伝統」についてだ。

「われわれ日本人が、嬰児時代より、老年にいたるまでの、坐ったり、立ったりする度数は、幾万回におよぶであろうか。日本民族の日常生活は、ほとんどこの立ったり、坐ったりに、費やされるのであって、これが幾十、幾百、幾千世代にわたり、何千、何万、何十万年を閲して、時事日々繰り返されてきたのである。腰が堅固になり、脚も強くなろうではないか。」

畳に正座どころか、フローリングの洋間にソファーと椅子の暮らし。和式便器にしゃがむことすらあやしくなった現在、若い衆の体格ばかりが大きくなっても、それが相撲の強さとは相関していないことは、すでに誰もが見せつけられている。

「身長が五尺八寸以上あり、肩が隆く、胸と背が厚く、腰が張り、腿が太く、脛が緊ってをれば、まず申分のない体格と言ふべきでせう。二十歳前後でこれだけ条件が整えば、目方だって二十五貫前後は必ずあります。これが精進錬磨すれば三十前後には、三十貫以上に増量すること請合ですから」

これらが書かれたのは昭和十年。普通の成年男子の体格は今の女性並みだった中での五尺八寸(約177センチ前後)二五貫(約98?)は、今とはまるで意味が違う。

「国技」というもの言いが素直に共有できた時代とは、実にそんな時代だった。硯友社のひとり、江見水蔭が明治末年に作り出した言葉と言われるが、その「国技」が相撲の代名詞のようにひとり歩きし始めるのはやはり当時、昭和初年、大阪相撲と東京大相撲との大合同がなって以降。「日本」という表象がいっぱいに風をはらんでふくらんでゆく時代。付言すればそれは、浪曲の隆盛とも重なっていた。思えば浪曲もまた、相撲と同じように「日本」と重ねて語られることが当たり前になっていた芸能であり、興行を介して「クロウト」の世界の中核となっていた。そして、それゆえに相撲と同じように、「戦後」という時代をくぐってその後、同時代から気の毒なほど置き去りにされてしまってもいる。「むかし」と言い、それを一律に「日本」と付会して格別何とも思わない、そんな〈いま・ここ〉をわれわれは生きてきた。そんな現在の連なりをひとしなみに「戦後」、と呼びならわしてきた。

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北の湖の奥さんがこんな述懐をしている。もとは、川崎の川魚料理の料亭の娘。なれそめは、タニマチに連れてこられた北の湖が一目惚れした、という“おはなし”になっている。引退して部屋を持つようになった頃の話だ。

「自分も家庭に相撲を持ち込まないから、お前も相撲を見るな。見れば何だかんだと口がでるようになる。それはやはり自分としても嫌なんでしょうね。口を出してほしくないと。だから見るなと。負けたときはなんか照れ臭そうに帰ってくるぐらいで、全然、家庭には持ち込みませんでした。」

「「家庭的になったら相撲は終わりだ。おまえ、それでもいいのか」って脅迫されましてね(笑)。そういうふうに言い聞かせられれば、そうだなということで、自分たちもそれに準じて生活していくようになりますね。」

おいおい、それっていつの時代の話よ、と思わず言いたくなるような「家庭」。男は仕事のことを家の中に持ち込まず、女は黙って家を切り盛りし、男の仕事を支える内助の功を。弟子はみな子ども同様、彼らもおかみさんを母親同様に思うのが当たり前。「部屋」はそのように共同体であろうとし、また、その中で支えられると信じられた何ものか、もあった。協会理事長北の湖のあの、いまや傲岸不遜にさえ見える頑なな態度、見事なまでのオヤジ的言葉足らずのさまなどもまた、そんな信心の果てに確かに現前しているものに他ならない。それがたとえば、同じく今やもう、誰もがうんざりしているあの官僚や政治家の答弁の空虚さと、現われとしては酷似してしまっているように世間が感じるのは、その言葉の背後にある生身のありかたがもはや相撲とりと官僚との間に「格差」を感じないでいられるまでに〈いま・ここ〉から疎外されてしまっているからなのか。

それでも、ああ、北の湖もまたやはり「世代」の子、「豊かさ」を実現したニッポンの〈いま・ここ〉を生きる相撲とりでもあったりしたようだ。だって、そんな定型の「家庭」ぶりのもの言いのその一方で、ほら、こんなこともそっと言っているらしいのだから。

「それこそ、髷を取ってしまえばただのデブなんだから、ぐらいのことは冗談に言ってましたから」

「ただのデブ」――しかし本当にいま、冗談ではなく世間の大方は彼のことをそう見ている。いや、もっとはっきり言おう。「ただの中卒のデブ」じゃないか、と。

そこには、彼が「そういうもの」と信じて耐え、支えてきたような相撲の価値観、世界観についての理解や共感、敬意などはすでにない。そんなむき出しの〈いま・ここ〉に一本刀土俵入り、駒形茂兵衛の気分で立ちはだかっているのが理事長北の湖、なのではないのか。 だから、北の湖を、そして彼しかすでに楯になれなくなってしまっている相撲を、「ただの中卒のデブ」の時代錯誤、のままにしておいていいはずはない。それは、あの「国技」や「伝統」といった大文字のもの言いだけで防げるものでもない。相撲が、われらニッポン人のココロの来歴において、どのような芸能――そう、はっきり言うよ、芸能としてあり続けてきたのか、なぜ「拝まれる」存在であり得ていたのか、それを身の丈で「わかる」言葉をつむいでやること、それが今の相撲の、そして相撲だけではない、「戦後」「昭和」として憐憫や嘲笑の対象になっている“もの”や“こと”について、正しく向かい合う態度なのだと思っている。

執筆: この記事はking-biscuitさんのブログ『king-biscuit WORKS』からご寄稿いただきました。
寄稿いただいた記事は2015年12月15日時点のものです。

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