Zとは何か?ももいろクローバーZ、その「終わりなき革命」を考える
人気アイドルユニット「ももいろクローバーZ」が、新体制になってから初の本格的なライブツアーを、今年5月から7月にかけて全国のZeppで行った。ツアータイトルは「Zでいくって決めたんだZ!!」。今年4月にメンバーの一人、早見あかりが卒業して、それまでの「ももいろクローバー」という名称に「Z」が付されたのは周知の通り。人気も知名度も急上昇中のアイドルユニットが(メンバーの卒業があったとはいえ)途中で名称を改めるのは極めて異例のことだ。少なくとも、4月に改名が発表されて以降、その唐突さに違和感を拭い去れないファンも少なくはなかったはずである。「Zでいくって決めたんだZ!!」というタイトルは、そうしたファンの心情はもちろん、メンバー自身にとっても、新しい「ももいろクローバーZ」への期待を呼び起こしたことだろう。
結局は、このツアーにおいても「Z」の謎は解き明かされなかった。ツアータイトルの期待に比して、やや肩透かし的な印象はあったかも知れない。何かこう、Zであることの必然性、「だから私たちは『Z』なんだよ!」みたいなセンセーショナルな宣言を期待していたのだが・・・。いやしかし結果的には「Z」の意味など気にならなくなるほど、素晴らしいライブパフォーマンスが展開されていたのだ。むしろ「Z」には永遠に答えがない方が、最も神秘的で貴いのではないか?そこで、今改めて問う「ももいろクローバーZ」の魅力とは一体何か。私見、臆見をお許し願いつつ考察していきたいと思う。
Zeppツアーでのステージセットは至って簡素だった。ニューシングル「Z伝説~終わりなき革命」「D’の純情」それぞれのCD代込みで3000円というリーズナブルな価格なのだから、大掛かりな舞台装置を要求する方が酷というもの。しかしこの飾り気のない簡潔なステージは、むしろももクロのパフォーマンスを純粋に楽しむにあたって、他のどんな舞台より贅沢なものだったと断言できるだろう。
アイドルのライブは、時として過剰なまでに装飾的な舞台装置を施し、果ては寸劇やゲームまで盛り込まれ、その世界観を半ば強制的に共有させられる(その典型がハロプロやAKB48などだろうか)。しかしももクロにはその必要が一切ない。いやむしろ、そうした装飾があればあるほど、彼女らにとっては欝陶しく邪魔なものでしか無いだろう。ファンにとってももちろんそうだ。なんと言ってもももクロの醍醐味は、そのひたむきで気迫に満ち満ちたライブパフォーマンスに心身ともにのめり込み、ステージと客席との一体感を感じ取ることしか無いのだから。
「お前たちが先に倒れるか、私たちが先に倒れるか、勝負だ!」。ももクロのライブではお決まりの、ステージ上から観客への挑発。ももクロのライブの魅力とは、このように常にどちらが先に倒れるか競い合うような、スポーツ的な覇気に満ちあふれた世界なのだ。
熱心なももクロヲタとして一部では有名なある人物が、ももクロと他のアイドルの違いを「フェスティバル」と「カーニヴァル」という言葉を使って定義し、私はその卓越した表現に思わず手を打った。ももクロ以外のアイドルは「フェスティバル」、すなわち「祭り」でありながら「催し物」でもあるが、ももクロは「カーニヴァル」、すなわち同じ「祭り」であっても「熱狂」なのであって、ステージ上と客席とが渾然一体となって、一つのライブを共同で作っていくのである。決して「催し物」としてステージ上のパフォーマンスを「鑑賞する」「享受する」のではなく、ファンもまた能動的に「ステージ上へ飛び込む」。安易にももクロと他のアイドルを差異化することは誤謬の元となるかもしれないが、少なくともももクロのライブパフォーマンスを限定的に比較の対象とするとき、この「フェスティバル」と「カーニヴァル」という表現は正鵠を射ていると思うのだ。
私は最近、かつて私自身も熱心なファンだった某ハロープロジェクト系アイドルユニットのライブ映像を観た。凝ったライブセットに華やかな衣装、盛り上がりも最高潮に達して観客のシンガロング。しかし私は、その熱狂に何かそこはかとない白々しさを感じてしょうがなかった。それは綿密に、用意周到に「作られた熱狂」なのである。
このユニットはかつて、ハロプロ系なのに地道なインディーズ活動を続け、弛まないハングリー精神でレコード大賞新人賞まで受賞した稀有な存在だった。初期の段階ではファンとの親密度も高く、まさに前述の言葉を使えば「カーニヴァル」的存在としての期待が大きかったのだが、途中メンバーの相次ぐ脱退などもあって、結局は一般的な知名度に火が付かないうちにその名は霞んでしまった感がある。ハロプロ固有の体質もあるのだろうが、どうしてもお家芸によるマンネリ化が顕著になってしまい、かつてのようなハングリー精神はどこかへ消えてしまったのだ。「カーニヴァル」的だったかつての面影を残すことなく「フェスティバル」的な「催し物」としてのライブへと収斂されていった彼女たち。今の彼女らに残ったものは、綺麗に磨かれた、穏当で上品な、作られた熱狂を周到にやってのける、没個性的な「アイドルらしさ」だけだった。
そもそも、ももクロの掲げる理念とは「アイドル=かわいい、という既成概念を覆す」ことだ。彼女らのパフォーマンスに、いかにもアイドルらしい「かわいらしさ」や「品の良さ」は無縁である(もちろん、ももクロが「かわいくない」わけはないが)。とにかく全身全霊で歌い踊り、終始全力疾走の激しい運動の連続。6曲も7曲も平気で連続して歌い踊る彼女らには、スポーツ的な汗臭さの方が似合うのだ。さらには彼女らの掲げる錦の御旗は「天下統一」。アイドルが天下統一、一体何のことやら傍からみてれば戸惑う他ないだろう。しかし彼女らの天下統一は明瞭だ。現在様々なアイドルがしのぎを削り合う、この「アイドル戦国時代」を戦い抜き、ポストAKB48のアイドル界の天下を掴み取り、アイドル界に「革命」をもたらすことである。こうした無謀としか言えない壮大な野望に、しかし白けることなく不思議と感情移入できてしまう所以は、彼女らのパフォーマンスを一目して直ちに頷けるものだろう。
「アイドル」という概念をあえて(そして冷酷に!)抽象化すると、まず「かわいい女の子が歌って踊ってる」状態を「商品」としてファン(消費者)に提供し、ファンがその「商品」をライブやイベント(市場)を通して「消費」するという構造がある。おおよそどんなアイドルもこの構造を踏襲して、自身らの「商品価値」を競い合う。そんな中ももクロは、厳しいアイドル競争社会の中で「かわいい」を消費の対象とすることをあえて拒む。今まで「かわいさ」だけが中心的な消費対象だったアイドルの営利を、パフォーマンスへ、そしてステージと客席の一体感へ、限りなく「商品価値」のパラダイムシフトを果たそうとするのである。これこそ「アイドル=かわいい、を覆したい」という言葉に象徴される、ももクロの「革命性」ではないだろうか。
ももクロは常に全身全霊、全力疾走、まさに「全力少女」たちなのである。それは今までの「アイドル」が指し示してきた「お人形さんのようなかわいい少女が、あどけない素振りで歌って踊っている」のとは正反対の、歌と踊りの一つ一つで小さな子供から大の大人まで圧倒せしめる、本物のパフォーマンス集団としてのアイドルなのである。「アイドル」という言葉の定義が、私はももクロから変わると信じている。もはやナイーブな意味での「かわいい」や「少女性」がアイドルの常識ではなくなる。観客と一体となったアクティブさ、その尽きることのないパワーが、「アイドル」という身体性が持ちうる果てしない可能性を描いてみせるのだ。
話を「Z」へ戻そう。メンバーだった早見あかりが卒業してから付けられた「Z」は結局なんだったのだろう、と考えてみる。やはりそれは早見あかりが居ない「ももいろクローバー」の喪失感を象徴的に記号化したものなのだと思う。熱心なファンの間でも6人時代のももクロが一番熱い時期だったとよく語られる。その早見が居なくなったことによる喪失感が、「Z」という記号を借りて象徴化されたのだ。
しかし、私は決してそうした後ろ向きの思考に囚われたくはない。私は今回のライブツアーで間違いなく「新生ももいろクローバーZ」の魅力に触れた。彼女たちは、今後もさらなる進化を遂げるポテンシャルを、アイドル界に革命を起こすパワーを持ち続けている。だから私は「Z」をあえて「X」に置き換えてみる。「X=無限の可能性」。今後も彼女たちの「終わりなき革命」に、一刻も目が離せない。
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