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「困難な成熟」予告編(内田樹)

「責任を取る」ことなど誰にもできない

まことに逆説的なことですが、私たちが「責任」という言葉を口にするのは、「責任を取る」ことを求められるような事態に決して陥ってはならないという予防的な文脈においてだということです。それ以外に「責任」という言葉の生産的な使用法はありません。
さっき言ったように「責任取れよな」という言葉は、「お前には永遠に責任を取ることができない」という呪いの言葉です。「これこれの償いをなしたら許されるであろう」と言っているわけではありません。
学校でいじめにあった子どもが自殺したときに、親がいじめた子どもの両親と学校長と担任を相手取って、「1億円の損害賠償請求」をしたというような記事を読むことがあります。これだって「1億円払ったら許してやる」と言っているわけではありません。この賠償額の設定基準は「相手の一生を台無しにできるくらいの金額」ということです。つまり、賠償請求をすることを通じて、「私はおまえたちを絶対に許さない」という賠償の不可能性を告げているのです。
「責任を取れ」というセンテンスは「なぜなら、おまえには責任を取ることができないからだ」という口にされないセンテンスを常に伴っているのです。
ですから、「どうやって責任を取るのか」というのは問いのありようとして、すでに間違っているのです。
責任は取れないんですから。誰にも。
私たちが責任について思考できることは、ひとつだけです。
それは、どうすれば「責任を取る」ことを求められるような立場に立たないか、ということ、それだけです。
勘違いしてもらっては困りますが、それは何についても「私は知らない。私は関与していない。私には責任がない」という言い訳を用意して、逃げ出すということではありません。まるで、逆です。
だって、その人は「私には責任がない」と言い張っているわけですからね。いかなる不祥事が起きようと、他人が傷つこうと、貴重な富が失われようと、システムが瓦解しようと、「私には責任がない」と言って逃げ出すんです。そんなことを金切り声で言い立てる人間ばかりだったら、世の中、どうなりますか。「私には責任がない」と言う権利を留保している人間だけで構成された社会を想像してください。そりゃすごいですよ。電気は消える。水道は止まる。電車は来ない。銀行のATMは動かない。電話は通じない。その他もろもろ。
きちんと機能している社会、安全で、そこそこ豊かで、みんながルールをだいたい守っている社会に住みながら、かつ「責任を取ることを人から求められないで済む」生き方をしようと思ったら、やることはひとつしかありません。
それは「オレが責任を持つよ」という言葉を言うことです。

逆説的な結論

これも考えればすぐにわかりますが、構成員全員が「オレには責任ないからね」と言い募り、不祥事の責任を誰か他人に押しつけようと汲々としている社会と、構成員全員が自分の手の届く範囲のことについては、「あ、それはオレが責任を持つよ」とさらっと言ってくれる社会で、どちらが「誰かが責任を取らなければならないようなひどいこと」が起こる確率が高いか。
まことに逆説的なことではありますが、「オレが責任を取るよ」という言葉を言う人間が一人増えるごとに、その集団からは「誰かが責任を取らなければならないようなこと」が起きるリスクがひとつずつ減っていくのです。集団構成員の全員が人を差し置いてまで「オレが責任を取るよ」と言う社会では、「誰かが責任を取らなければならないような事故やミス」が起きても、「誰の責任だ」と言うような議論は誰もしません。そんな話題には誰も時間を割かない。だって、みんなその「ひどいこと」について、自分にも責任の一端があったと感じるに決まっているからです。「この事態については、オレにも責任の一端はあるよな」と思って、内心忸怩たる人間がどうして「責任者出てこい」というような他罰的な言葉をぺらぺら口に出すことができるでしょうか。
長くなりましたので、結論を申し上げます(もう申し上げましたけど、まとめ)。
責任というのは、誰にも取ることのできないものです。にもかかわらず、責任というのは、人に押しつけられるものではありません。自分で引き受けるものです。というのは、「責任を引き受けます」と宣言する人間が多ければ多いほど、「誰かが責任を引き受けなければならないようなこと」の出現確率は逓減してゆくからです。
どのような社会的な概念も、人間が幸福に、豊かに、安全に生き延びるために考案されたものです。「責任」という概念もそのひとつです。
「責任」は「鍋」とか「目覚まし時計」のように、実体的に存在するものではありません。でも、それが「ある」というふうに考えた方がいいと昔の人は考えた。それをどういうふうに扱うのかについて、エンドレスに困惑することを通じて、人間が倫理的に成熟してゆくことを可能にする、遂行的な概念だからこそ、作り出されたのです。
そういう意味では、それは「摂理」とか「善」とか「美」とかいう概念と同じようにとらえがたいものです。「どんなものだか見たいから、ここに紐で括って持って来い」というようなご要望にお応えできる筋のものではありません。
それはあるいはヒッチコックが「マクガフィン」と呼んだものと似ているのかも知れません。
マクガフィンというのは、スパイ映画なんかで、敵味方が入り乱れて奪い合う「マイクロフィルム」とか「秘密の地図」の類です。それが何であるかはどうでもよろしい。とにかく、それをめぐってすべての登場人物の欲望が編制されている。誰一人、その呪縛から逃れることができない。でも、実体が何だかわからない。そして、なんだからわからなくても、サスペンスの興趣は少しも減殺されない。
マクガフィンには効果だけがあって実体がありません。これについてヒッチコックはこんな小咄を紹介しています。

「その網棚の上にあるのはなんだい?」
「これかい、これはマクガフィンだよ」
「マクガフィンて、何だい?」
「アディロンダック山地でライオンを狩るための道具だよ」
「アディロンダックにライオンなんかいないぜ」
「ほら、マクガフィンは役に立っているだろ」

マクガフィンを「責任」に、「ライオン」を「われわれの社会を脅かすリスク」に置き換えて読んでみて下さい。

執筆: この記事は内田樹さんのブログ『内田樹の研究室』からご寄稿いただきました。

寄稿いただいた記事は2015年08月23日時点のものです。

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