30代後半、午後からコミケ参戦者のつぶやき

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2015年8月14日(金)~17日(日)、有明国際展示場にて開催中のコミックマーケット88に一般参加してきた。

ちなみに起床は11:40頃。

やる気があるのかという話だが、いいのである。

一般参加で誰とも約束していない40代間際の人間が一人で行くにあたり、このような時間に目を覚ましても誰に迷惑のかかるわけでもない。

初めて参加した時分はまだまだ会場は晴海にあった。高校生だった。

その初めての朝は今でも覚えている。小学校の遠足以来の早朝5時に起きて、一人、家を抜け出して遠方に向かう電車に乗った、その日の朝日を覚えている。まずコミケカタログの厚さに、会場の広さに、人々の多さに、そして好きなものが溢れている楽園のような世界に感動したし、これが自分の愛するものだという自覚を強くした。その後は自分も同人誌を作成した。印刷技術の粋を凝らしたチケットに感激して、当時まだ郵便振込みのみだった申し込み手続きの難儀さに四苦八苦して、何よりも初めて自ら印刷物を依頼する行為に興奮した。

その後も活動を通じて知り合った人は大勢いたが、今はもう一人で誰とも約束せずに遅く起きて会場に向かうコミケを迎えた。

気楽だ。

目当ては艦これの百合同人と某小説ジャンルで、新宿まで出てりんかい線直通の埼京線に乗る。ツイッターで目当てのサークルの新刊が完売ツイートするのを寂しく感じ、でも通販があるしな、などと思い直す。

かつてはフリー入場も13時頃まで待たされたが、今ではもう午前の段階でフリーになるようだ。
友人がいれば行動範囲も広がるし、漁ることのできるジャンルも増えるし色色と心強いのも承知だ。それでももう一人なのである。

会場に到着して、島を巡り、気になった作品を拝見して作家さんと言葉を交わしていくうちにバッグのなかは重くなる。

一番気合の入っていた頃にはブランド物の大きなバッグに、目に触れるそばから大枚はたいて入手していった。地方から訪れた友人と「アフター」では赤坂や渋谷へ繰り出して大いに食べて呑んだ。

ジャンルの話題には事欠かないしそれで充実もしていた。

けれど、様々な事情があって同人活動を離れなければならなくなって、数年離れていたのだ。

そして今こうして一般参加するまでに回復はしている。持っているバッグはブランドものではなく食パン会社のキャンペーンで得た広口の持ちやすくて軽くて頑丈なバッグだ。帰りの食事は、帰宅前の最寄り駅でファストフードで軽く済ませた。帰宅して収穫物を広げながら、買い置きのお菓子を出してきてのんびり転がる。

もうあのような万事きちっとした参加の仕方はしないだろうと思う。つまり睡眠時間を切り詰めて原稿を仕上げて入稿し、前の晩は東京駅まで地方から上京する友人を迎え、家に泊め、作品のことで盛り上がり、当日は日の出とともに起き出して、眠い目をこすりながら会場に向かう。それまでも色色あったりするのだが、到着したら開場とともに拍手をして、買い物と情報収集に腐心して、閉場間際は在庫を宅配の列に持ち運び行列に耐えて待つ。それから赤字だとわかっていながらも豪勢な食事に繰り出して、「やり終えた」ことと尽きないジャンルの話題に終始する。

死ぬほど楽しいのだ。

けれど、今はしていない。

いや、一般参加すること自体も不思議に感じている。つまり、それほどに自分が夢中なのかどうか疑わしさがあるのだ。

もちろんその作品は好きだし、ほしい同人誌もある。

けれど、どこかでその頃よりも熱心、いや無心でない心持がある。

それはどこかで無垢さだとか、ひたむきさだとかを離れている間に落としてきてしまったからだろう。けれど、だからこそ、自分が本当に何を求めているか理解しつつある。だからこそ、こうしてまた今年も訪れた。

形は違うが今でもコミケが好きだ。

当時はその「ジャンル」つまり中身が好きだったのに、表面だけが好きになってしまっている。高校生の頃の自分は、今私がこんなにぼんやりとした心持でコミケに参加していることを知ったら激怒するかもしれないなと思う。

午後からのコミケは会場全体が多少は移動しやすくなっている。

もちろん人気のサークルの新刊は買えないこともあるが、それほどまでに人気のサークル作品はあとから秋葉原や池袋で入手できる。だからそこでいちいち頓着せずに、島をゆっくり巡る。一番入手しにくいのはいわば島の「お誕生席」サークルで、いわゆる「壁」はそれほどの大手なので案外午後でも新刊なら入手できる。

サークルさんも挨拶や買い物を終えて、スペースでまったりしていることが多い。だから声もかけやすいし、作品の話も盛り上がる。

すでに片付けたサークルさんもある。けれどだからこそ目移りせずにゆっくり品定めすることもできる。
何よりも焦っている人がいないので、体力も身体能力も落ちた人間には安心だ。

近頃気をつけたいのは置き引きで、これはサークル参加者も一般参加者も注意したいところだが、斜め掛けバッグで参加というのが毎年の鉄則としていて幸い危険を感じるようなこともなかった。

高校生の時分は、まさかその後自分が20年近くも年に二回のこのビッグイベントに参加し続けるとまで思っていたかどうか。

何しろ1980年代。「オタク」という存在が現在のように政治家や企業により金払いのいい客という囲い込みも得られず、市民権もなく、ただただ「ロリコン集団」だとか不気味な手合いとしてマスコミにバッシングされていた頃だ。

まず第一に私は「同人誌」が何なのかもわかっていなかった。

同人誌である。

例えば宮沢賢治が花巻の農学校で友人たちと集合して作成した「アザリア」も同人誌であるし、戦争で用いられた艦隊が擬人化されて更にエッチなまねを強いられる二次創作も同人誌と称する。
接点が見つからない。

しかし当時教室で習った文学史における「同人誌」も、今コミケで頒布される「同人誌」も同じものだということが、まずまっさきに疑問だった。

その違いが何なのかを知りたくて参加したのが最初だった。

好きな漫画やアニメがあるというよりも、「同人誌」が何か、「サークル」とは何か、「コミケ」では何が行われているかを知りたかった。

やがてそこで「やおい」なるものに触れて、その後、自分にとって好きな「ジャンル」ができて、私は私のために同人誌を自ら作成するようになった。

しかし、未だに「同人誌」が何なのかはわかっていない。

共通表現を用いるなら「表現」なのかもしれない。

だからこそコミケットでは創作物を「販売する」とは言わず「頒布する」と言うのだし、「お客様」は存在せず「参加者」しかいない。

しかし、昨今では同人誌専門店も数多世間に存在し、インターネットの普及によって同人作家の作品は日常的に目にふれることが可能になり、「ハレ」の意味合いのあった同人誌即売会も「ケ」つまり日常に浸透しつつある。

あくまでも趣味だから、という見解もあるが、実際に同人誌の売り上げで生計を立てている人もいる。
かつては文学表現ではなかったのか。

その疑問は未だ解けない。三島由紀夫がかつて同性愛の世界を「感性の密林」と表現したが、それがぴったりかもしれない。いくらでも例えることはできる。しかし、「コミケとは」「同人誌とは」何かと問いかけられたら私にはわからない。それが何なのかは知っている。ただ。「何故夢中になるのか」と問われたらもうダメだ。

ただ、今でも自分がコミケを好きだということを、20年前の高校生の時分はどう感じるだろう。当時、それほどまでに好きになるだろうとは思わず、ただ「他人と違うこと」をしたいだけだった自分は。
むしろ今は「他人と違わない」ことをコミケで実感して安堵しているし、コミケが好きだよと教えたら、何と言うのだろう。

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