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かなりイケメンに仕上がった!長宗我部元親像が高知県 歴史民俗資料館に登場

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高知県南国市にある高知県立歴史民俗資料館の前に『長宗我部元親(ちょうそかべ・もとちか)像』が建立され、5月3日に除幕式が行われました。
高知県立歴史民俗資料館HP

全国から集められた1500万円の寄付によって建立された新しい元親像はゲームや漫画の影響もあり、なかなかイケメンに出来上がっています。

朝日新聞デジタル
土佐の戦国大名・長宗我部元親(ちょそかべ・もとちか)。
なかなかインパクトのある名前ですが、『大河ドラマで主役をやってほしい戦国武将』というアンケートでも上位を占めるなど、常に高い人気があります。今回はイケメンというだけではない、その人気の秘密を探ってみましょう。

長宗我部元親(1539~1599)は当初、その優しげな風貌から“姫若子(ひめわこ)“と呼ばれ、長宗我部家の当主としての力量が心配されていたそうです。しかし初陣で見事な活躍を見せると一転、”鬼若子“と呼ばれるようになり、”一領具足(いちりょうぐそく)”と呼ばれる長宗我部の家臣達の熱い支持を得ることが出来ました。

※一領具足(いちりょうぐそく)…普段は農業に従事していた半農半兵の長宗我部の家臣団。招集されればすぐに出陣できるよう、常に武器や鎧兜一式を田畑の脇に置きながら農作業をするなど、忠義に熱く武力にも優れていた。

※こちらは平成11年(1999年)に建立された『長宗我部元親初陣の像』。
こちらの像もカッコイイと評判です。力強く前に伸ばされた左手で、四国を掴み取ろうとしています。
http://www.city.kochi.kochi.jp/soshiki/39/uijinnozou.html

その後も長宗我部元親は快進撃を続け、阿波・讃岐・伊予を攻め落とし、四国統一目前にまで迫ります。しかし織田信長や豊臣秀吉の天下統一事業の前に破れ、ふたたび土佐一国に減封されてしまいます。

更に悪いことは重なり、秀吉に従い九州征伐に従軍中、島津軍との戦いで元親の最愛の嫡男・長宗我部信親が討死します。後継者として将来を大いに期待していた信親の死により、長宗我部元親は失意のどん底に陥り、長宗我部一族は混迷を続けてしまいます。

元親の死後は、四男の長宗我部盛親が家督を継ぎました。しかし『関が原』の戦いで西軍についたことから、敗戦後は徳川家康によって土佐を没収され、長宗我部家はついに改易となってしまいました。

土佐は、駿河の掛川から入城した山内一豊が領主となりましたが、長宗我部の旧家臣団の結束は固く、新しい領主になかなか従わなかったと言われています。

その15年後、徳川家と豊臣家の最後の戦いとなった『大阪の陣』が起こります。長宗我部のかつての家臣達は、長宗我部家の再興と土佐の領主としての復活を願い、長宗我部盛親の元に集結、豊臣方の主力部隊として大いに活躍しました。

しかし豊臣側は敗北。

大阪城の炎上とともに豊臣秀頼と淀君が自害し豊臣家が滅亡すると、長宗我部盛親も捕らえられて斬首となり、ここに長宗我部家は滅亡します。

徳川幕府の時代、土佐藩は山内家ゆかりの武士を上士、長宗我部家ゆかりの武士を下士と呼び、下士は冷遇されたと伝えられています。

しかし260年後、幕末の動乱期に坂本龍馬・中岡慎太郎・吉村寅太郎・武市半平太などの下士出身の志士達が出現。維新の原動力となり、新しい日本の夜明けに向かって活躍しました。

長宗我部氏は滅んだ後も、四国の覇者としての精神が、400年後の今も息づいているのです。

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