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【 Trip to 90’s 】 野生の夜に(1993)

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【 本文に入る前に 】

筆者にとって1990年代の映画は格別に思い入れが深いものであり、今にして思えば映画における90年代はある意味有意義な時期だった。ミニシアター系と呼ばれる映画がブームになり、ハリウッドの娯楽系作品を凌駕したといってもいいくらいのムーブメントが起こった特別な時代だった。
小さな劇場にはシネフィルと呼ばれる映画マニアたちが押し掛けていた。
クエンティン・タランティーノ、ロバート・ロドリゲス、デヴィッド・フィンチャーなど錚々(そうそう)たるメンバーがこぞって傑作を生み出し、日本でも徐々に知名度をあげていった。まさに映画にとっての黄金期だ。
筆者も人生の中で映画にいちばん執心していた時期で、自由に劇場に出かけては多くの名作に出会うことができた。(田舎で公開されないような作品は、東京まで出向いて観ていたものだ。)
古くなりつつある“あの頃”のお気に入りの映画を、筆者自身の感想などを記しながら記憶が薄れないうちに書きとめておく忘備録にしたいと思う。

長い前置きはさておき、その第一作目が、1993年日本で公開された「野生の夜に」である。

初見の思い出など…

本作は日本で知名度はかなり低いであろう、作家、映画監督、俳優であるシリル・コラールの最初で最後になる監督作品だ。
当時、東京のどこだったか…もちろんミニシアターで上映されたが、筆者は本作は劇場で観られず、しばらくしてWOWOWで遅ればせながらの観賞となったわけである。
当時1、2度観た後の感想としては、筆者自身が未熟であり視点がまるで固定カメラのようにある一面からしか観ることをしていなかったのだろう…主人公の人間性と彼の破壊的行動をまったく理解できなかった。
しかし、どこか惹かれる空気感というか、切ない自堕落さ、作品から溢れる頽廃を「意味不明」という理由で切り捨てることはできなかった。ビデオ録画しておいた本作を気が向けば何度も繰り返し観ていたのだった。
理解できなくても嫌いではなかった、むしろ好きだった、感覚で吸いとろうとしていたのだ

本作についてまわる既成概念

残念なことに現在、おもな映画紹介サイト( YAHOO映画、映画.com )で検索しても「野生の夜に」は存在しないし、DVD化もされていない。
唯一、allcinema.net には、某かの解説が掲載されているので参考にして欲しい。
参考にして欲しいと言いながら、アレなのだが筆者は解説として掲載されている批評家とおぼしき方(無記名)が書いている文章に納得できないのが本心だ。

30がらみの一人のバイセクシャルの業界人的プータローの、死と対峙しての恐怖や、初めての愛ある(それゆえに自分の病気を告白できない!?)セックス、反動でする男漁り……等、相当にインモラルな内容を衝撃的に綴っていくのだが、だからと言うのでなく、ひどく稚拙で冷静さを欠く作品の在り方自体が自己憐憫的で、映画の倫理に著しく反して不愉快だった。(allcinema より)

自己憐憫や映画の倫理と云われれば、主人公 ジャン(シリル・コラール)はエイズでありながら、それを告げずに17歳のローラ(ロマーヌ・ボーランジェ)とセックスに及び、一方ではサミー(カルロス・ロペス)というマッチョな若者とも肉体的な関係にあるという部分では、確かに倫理から捉えるにはあまりある所行である。
自分だけが“死の恐怖”で苦しんでいるとばかりに周囲を巻き込み、混乱に陥れる青二才だ。
ストーリーだけで先述のように、本作を俎上に載せることは簡単であるが、「憐れみ」や「身勝手」で片付けるのは少し短絡的ではないだろうか。もし本作を観る機会があったなら、ドラマとか恋愛映画というジャンルやモラルなどの固定観念を一度リセットしてから観て欲しいと思う。

どうどうめぐりの主人公と周囲の男女との関係

最初に近づいてきたのはジャンからだ。
たちまち2人は恋に落ち自分がバイセクシャルであることを告白もするも、エイズであることは告げずに性行為に及んでしまう。
事実を知らされ、混乱するローラ。しかし、すぐに元の関係に戻り避妊具なしで行為に及ぼうと言い出したのは彼女だ。
まだ17歳、自己犠牲が愛だと勘違いしていたのだろう。
近づけば喧嘩ばかりで時には普通の恋人同士がそうするように穏やかな時間を過ごしながら、二人の関係は長引く病のようによくなったり、悪化したりを繰り返していく。
「私がどんなに愛しても何も返してくれない!」
ジャンの元カノに涙で訴えかける。
「あなたに愛の何がわかるの?」
何度も叫び、問いかけるローラ。
ジャンを自分に縛り付けておきたい欲望が爆発し、何度も電話をかけては「あなたは私なしでは生きて行けないのよ」と半狂乱で叫ぶ。
やがて、彼女の精神は壊れていき、病院での療養を余儀なくされる。
ローラだけではなく、サミーも憑かれたように自傷行為や暴力行為に走る。
苦しむことで、ジャンの苦しみを共有するように…。

破滅のむこうに見えるもの

「この作品に悲壮感はみられない」
他サイトで若干名がそういった感想を述べていた。

ジャンはローラと別れた後に彼女への愛に気付き、荒野でただ一人咆哮し、彼女の名前を何度も叫び続ける。
胸が張り裂けそうになるシーンだ。
ラストで彼は遥か彼方に沈みゆく夕日を見て夜をやり過ごし、再び水平線から昇る太陽を見つめ、心の中でこうつぶやく。

生きている
世界は僕の外にあるのではなく、僕もまた世界の一部だ
僕は死ぬだろう
だけど、先のことはいい…
僕は今、生きている

(映画 「野生の夜に」より

哀しみ?
至福?
迷妄からの脱却?
彼の表情をなんと形容すべきか、このシーンで筆者は怒濤のような涙が流れて落ちるのだ。

“ 共演のボーランジェ(ローラ役)が熱演すればするほどシラけてしまう、女性への単純な視点や、おもねるのも気になった。さながら映画知らずの撮った映画のようなものだ”

先に紹介した映画サイトの批評家(?)の一文だ。
どうなのだろう?
ローラをはじめ、本作に登場する女性の描き方は、恣意的などではなく完全に彼の意図するところなのだ。
コラールは、決して阿(おもね)るなどという魂胆はなく、むしろその逆で一般に在る愛し合う男女の行き着く均衡のとれた場所や、LGBTへの差別的な視線を一蹴している。
それは映画だけでなく、彼の著書「やがて死すべき愛について」や「野生の天使」などにもモラルにとらわれることなく放たれている。
コラールは、その著作にジャン・ジュネの影響を受けていると言われ、ジュネと同じ12月19日生まれだということを誇りにしていたという。
正直なところ、件の批評家が “映画の倫理に反して…” と述べているのは、おそらくゲイやバイセクシュアルなどのマイノリティに対する不快感の表明にも受け取れる。

コラールが描く世界には、平穏、均衡、安寧という言葉は存在しない。
彼は檻に閉じ込められることなく、奔放に理想を貫き35歳でその生涯を終えた。その思念、奔放さこそ、彼が本作で描いている“野生”なのだ。彼が抱える野生は、少なくとも作品においては善悪で片付けられないところにあり、ラストで自ら抱える想いを昇華させ、がんじがらめになった心が解き放たれるのだ。

オープニングとラストで流れる、ジャンのけだるげな鼻歌が…コラールの心情にも聞こえる…切なく沁みる。

誰が知っていよう
本当の怒りの姿を…

ローラを熱演した、ロマーヌ・ボーランジェの父である俳優 リシャール・ボーランジェが「野生の夜に」に対しては否定的であったことは、とても残念でならない。

シリル・コラールは、筆者にとって永遠に愛すべき青二才のままだ。

参考サイト:ユーロスペース ホームページ

写真:
1枚目:http://www.allocine.fr/communaute/forum/
2枚目:http://www.divxclasico.com/foro/viewtopic.php?f=1015&t=66029#p826334
3枚目:http://bandofthebes.typepad.com/bandofthebes/politics/page/2/

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(執筆者: 風凛王(ぷー・りんうぉん)) ※あなたもガジェット通信で文章を執筆してみませんか

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