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魅力たっぷりのスパイシリーズ最新作〜柳広司『ラスト・ワルツ』

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魅力たっぷりのスパイシリーズ最新作〜柳広司『ラスト・ワルツ』

 英議会の情報安保委員会が、MI5やMI6を傘下に置く国家保安局は「スパイ要員」として母親や中年女性の募集に力を入れるべきとの報告書をまとめたそうだ。私がスパイ志望だった過去を告白したのは、昨年11月の本コーナーで『甘美なる作戦』(イアン・マキューアン/新潮クレスト・ブックス)をご紹介したときだが(もちろんそんなどうでもいい情報をご記憶の方はいらっしゃらないことでしょう。よろしければバックナンバーをご覧になってみてください)、すぐにでも履歴書を書き始めるべきだろうか?英検は2級しか持っていないことはむしろ伏せておくのが得策なのか?

 こんな途方もない夢想にふけっている時点で、”自分には適性がない”という重大な機密漏洩を犯してしまっているわけだけれども。MI5やMI6がどれほど人材不足に窮したとしても絶対に採用される見込みのない私のような者とは別次元の優秀なスパイたちが、『ジョーカー・ゲーム』(角川文庫)に始まり本書を最新作とする〈D機関〉シリーズにおいては次々と登場する。〈D機関〉とは、戦時中に設立された陸軍秘密諜報員養成所の通称。陸軍幼年学校からの生え抜きたちが重用される日本軍において、一般の大学を出た者たちにまったく新しいスパイ教育を施すという型破りなこの組織を立ち上げたのが、結城中佐という男だ。かつて帝国陸軍の伝説的なスパイだったと噂され、「魔王」の異名を取る人物。全方位的に完璧なキャラクターであるが最もしびれるのは、敵を殺したり自ら命を投げ出すことが美徳とみなされる戦時下において、「死は最悪の選択肢」として訓練生たちに生きるよう説いたことだと思う。ミステリー的な興味も十分に満たされる本シリーズだが、個人的にはやはりスパイ小説としての魅力に引きつけられる。

 本書『ラスト・ワルツ』には3つの作品が収められている。スパイ殺しを目的としたソ連の秘密諜報機関〈スメルシュ〉との満州特急車内での攻防を描く「アジア・エクスプレス」、退屈な生活に倦む陸軍中将の妻がかつて窮地を救ってくれた男との邂逅を心に浮かべる「舞踏会の夜」、ドイツの映画撮影所でナチス宣伝大臣であるゲッベルスを相手にスパイたちが暗躍する「ワルキューレ」。個人的に特に印象に残ったのは「舞踏会の夜」だ。このシリーズにおいて、女性の視点で語られる作品は珍しい。戦争において中枢としての役割を担うのはほぼ男性であるが、女性が完全に無関係でいられるわけもない。自分たちの与り知らぬところであらゆる決定がなされ、否応なしに巻き込まれていく閉塞感や無力感は、かえって女性の方が大きかったのではないだろうか。この短編の主人公・顕子は侯爵家の出身。物心ついた頃から反抗心が強く、駆け落ち騒ぎや家出を繰り返していた若き日の顕子は、あるとき愚連隊に絡まれているところを謎の男に助けられる…。

 著者の代表作はこのシリーズになると思うが、本書のように戦争などの社会的なテーマを扱ったり、歴史上の偉人や夏目漱石作品のキャラクターを主人公に据えたりしている小説も多い。ちなみに柳氏は、ここ数年”松井ゆかりが選ぶイケメン作家ランキング”における不動の1位だ(「スパイ志望」に続く、本稿2件目のどうでもいい情報)。

 戦争は辛く厳しく苦しいもので、二度と起こってほしくはないと心から祈っている。しかし〈D機関〉のスパイたちの素敵さはそれとはまったく別の話で、今後もシリーズ第5作、6作と続けていっていただきたい。できれば遠からぬ将来、結城中佐がより颯爽と活躍する話を読めますように。

(松井ゆかり)

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