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カープ・黒田が著書で明かしていた苦難だらけの“エースへの道のり”

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 広島東洋カープファンにとって待ちに待った日が訪れようとしている。
 2月18日から、カープの一軍は宮崎県日南市から沖縄県沖縄市に場所を移してキャンプを行う。その沖縄キャンプから、メジャーから復帰した黒田博樹投手が合流するのだ。

 黒田投手復帰というニュースが日本を駆け巡ったのは、去年の年末。12月27日のことだった。カープファンはもちろんのこと、野球ファンたちはその知らせに驚いた。カープファンである筆者はスポーツ新聞のニュースだけではにわかに信じることができず、カープの公式サイトを「黒田博樹選手復帰のお知らせ」というニュースを見て、「本当なんだ」と確信した。

 昨年、黒田投手はニューヨーク・ヤンキースで199回を投げて11勝9敗。メジャーで5年連続2ケタ勝利を記録し、報道によればパドレスから1800万ドルのオファーを提示されたという。そんな巨額のオファーを蹴って、推定4億円(+出来高)でカープに復帰。ビジネスとしては、到底考えられないことだ。

 しかし、2006年に黒田投手が国内FA権を取得し、「阪神移籍か」と騒がれたとき、黒田投手は「カープ相手に自分が投げている姿が想像できない」としてチームに残留した。年俸面では、カープは阪神タイガースに勝てない。そう言われていたし、当時のカープは確かに弱かった。Aクラス常連だった阪神ならば優勝が狙えた。
 ニューヨーク・ヤンキース在籍時の2012年に出版された黒田投手の著書『決めて断つ』(ベストセラーズ/刊)の中に、そのときの黒田投手の感情がつづられている。行使するかどうか迷っていたときに見た、カープファンのメッセージが書かれた横断幕に対して、「僕の心に永遠に残るものだったと思う」と感謝の言葉を記している。

 黒田投手は1996年、逆指名によるドラフト2位で入団する。しかし、最初から華々しい活躍したわけではない。1年目は規定投球回に到達したものの、6勝9敗。同期入団でドラフト1位の澤崎俊和投手(現在広島カープ2軍投手コーチ)が12勝8敗で新人王を獲得した。
 2年目、3年目は規定投球回に届かず、足踏みをする。四球数は投球回数の約半分を数え、「剛球だがコントロールが良くない」というイメージの投手だった。
 『決めて断つ』の中で、黒田投手は「本当に死のうか」と思ったあるエピソードを取り上げている。3年目のシーズンである1999年8月1日の広島市民球場(旧)での巨人戦。黒田投手は初回に4本のホームランを打たれ、6失点。2回もマウンドに上がるが、アウトをひとつも取れずに降板し、満員のファンに無様な姿を晒した。球場から家まで歩いて30分ほどの距離、黒田投手は「本当に死なないと収まりがつかない、ダメだ」と思っていたそうだ。

 そんな悔しさを抱えながら、地道な努力は実を結ぶ。
 山本浩二氏や、金本知憲氏をはじめ、カープは「遅咲き」といわれる選手が多い。緒方孝市現監督も初めて規定打席に到達したのは1996年、27歳のときのことだった。黒田投手が初めて2ケタ勝利を挙げたのは2001年のシーズン、26歳のときで、入団5年目だった。
 黒田投手は自ら「エース」になろうとしていたわけではない。先輩や同期たちに追いつこう、辿りつこうという想いだけだった。「カープの環境」が育ててくれた、そう黒田投手は語っている。

 『決めて断つ』は2012年シーズンが始まる前までの黒田投手の半生と、当時の野球への向き合い方がつづられた一冊。帯に書いてある「静かなるベストセラー3万部突破!」というコピーにも、“らしさ”を感じる。
 カープへの復帰を考えたという2012年から3年後の2015年。ついに、背番号15が復活する。筆者の記憶の中にあるカープの黒田投手は、まだ前のデザインのユニフォームを着ていたままである。現行の真っ赤なビジター用ユニフォームを着た黒田投手はどんな風に映るのだろうか。楽しみでならない。
(新刊JP編集部/金井元貴)


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