藤代冥砂「新月譚 ヒーリング放浪記」#13山

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登山ではなく、歩山を提案したい。
面倒くさく、やたらと疲れそうな「登る」という言葉を下ろして「歩く」に置き換えれば、やってもいいかなと敷居が低くなると思う。
頂上を目指さずに、数駅分ほど歩くつもりで登山口から気楽に入り、適度な所で空気と眺めを楽しんでから、弁当を食べて帰って来る。
それをピクニックと呼ぶと興味は萎むが、歩山と「山」を添えるだけで、想像の景色に穏やかな風が吹く。
山は良い。ほとんど愛していると言ってもいいくらい良い。
海は勿論良いが、山だって良い。川だって良いし、街も良いのだが、やはりなんといっても山が良い。
「孤独は心のふるさとだ」と無頼の作家坂口安吾が言ったが、人は孤独を楽しめるようになったら、いよいよ一人前。孤独は大人のたしなみである。上手にそれで遊ぶのが粋とも言える。
街での孤独は、ビルの影に入って冷たく、身を切るような痛みがあるが、山は孤独を美しく映してくれる。独断だが、山は一人で行くのが良い。むしろ、一人で行かない山は山でなく、ただの土盛りだ。
安全面での心配は、よく整備された日本の登山道などでは、まず道に迷う事もない。雨具と食べ物を持って歩き出せば、先には優しい孤独が迎えてくれるだろう。
街の孤独、職場の孤独、様々な関係上の孤独。それらとは全く別次元の、生き物が持つべき美しい孤独が山の中にはある。
頂上を目指してあくせく登る必要は無い。そこに山があっても登らなくていいのだ。ただ、ぼんやりと額に汗が滲む程度に散歩をすれば、山の愉しさを頂戴できる。

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いち、に、いち、に。交互に足を前へ出して行けば、そのうち自分の足が腰から上を何処かに運んでくれる。いち、に、いち、に。続けるうちに、頭の中に充満していた思考が一つ二つと順に消えてゆき、そのうち空っぽになってしまう。信号がないから、自分が止まろうとしなければ、どこまでも斜面を歩き続けて行ける。思考が抜け落ちて、ただ歩き始めたら、そこから先は美しく優しい孤独の世界だ。
その世界では、見るもの聞こえて来るもの全てが初めてのものに感じられるかもしれない。葉の形や色や柔らかさに新鮮さを覚えるかもしれないし、風や空や雲を心で触るような感じもあるだろう。小さな虫や小動物から友情を得るかもしれない。
ただ歩いているだけで、私が別の星に来たかのようにいつも感じるのは、とても楽しい。
自分だけのペースで歩き、立ち止まり、感じるには、やはり一人で行くのが一番だと思う。不安があるのなら、最初は誰かと連れ立っていき、次に同じルートを一人で辿るのも良いだろう。
一般的には、山の一人行きは、ある程度経験を積んでからが良いとされているが、岩場などのないルートならば問題ないと思う。
私が一人で行くことを勧めるのは、山と一対一の関係を結ぶことで、五感が刺激され、様々なセルフコンディショニングの再起動が見込めるからだ。
この「新月譚」でも切り口を変えて度々語ってきたことだが、人間に限らず生物には、自分を正しく生かそうとする能力がセットされている。自己治癒力と呼ばれているその力には限界があるものの、大方のことは自分で治せると私は信じている。
外的なストレスなどによって崩れた心身のバランスが不調や病気を生むのだから、それを調えることによって、ゆっくりと悪い部分は快復するだろうし、良い状態を保つためにも必要な事だ。自己治癒力が充実している人は個体として生命力に溢れ、周囲の人を惹き付ける魅力を放っているはずだ。健康的な人というのは、やはり美しいし魅力的である。なおさら自己治癒力の充実に気を配りたい。
その自己治癒力は心身両方に働きかける環境によってより多くもたらされる。

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孤独というのは、自分を見つめる繭のようなものだ。時々その繭に自ら進んで入り、自分を感じ直し、見つめることで、自分を癒すことが出来るなら、その人は外見的にも内面的にもバランスのとれた美しさを保つ事ができるだろう。孤独は心のふるさとであり、たまに帰省しなければ、心は迷子になって疲れ果ててしまう。
美しくなるために、サプリや健康法や、コスメ、食事に気を配ってはいるももの今ひとつしっくり来ない人には、週末に近場の山へ行ってはどうだろうか?孤独を愉しむために。
都内ならば奥多摩あたりも良いし、鎌倉には素敵なハイキング道も整備されている。その他の地方でも身近な山は必ずあるはずだ。
普段着ないようなカラフルな色のアウトドアウェアを纏って早朝の電車に乗れば、数時間後には透き通る空気の中を歩いていられるだろう。
まずは、ゆったりとゆったりと土の道を味わうように歩いてもらいたい。体が慣れるまでの最初の三十分は、息がきついかもしれないが、出来たら立ち止まらずにゆっくりでもいいから歩き続けてほしい。次第に順応してくるので、それ以降はどこまでも歩いていけるような活力が湧いて来るだろう。そのうち自分の丁度良いペースがつかめたら、五十分毎に十分間の休憩を挟んでいくと良いだろう。あまり長く休むと体が冷えてしまうので、気をつけたい。
初めてなら、数時間歩けば良いと思う。気持ち良く歩けそうなら、最初からもっと延ばしても構わない。要は楽しめるうちにやめることだ。自分をプッシュしてまでやる必要はまだないだろう。それは、慣れて来たらでいい。
まずは山での孤独を味わい、山の自然の美しさに心を開くこと。山と自分との境を外し、山の一部になること。それがどんなに素晴らしい事で、ストレスをリリースしてくれることかを多くの人に知ってもらいたいと心から思う。

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去年末に9歳の長男を連れてヒマラヤに一週間ほど滞在した。世界十番目の高さを誇るアンナプルナ峰のベースキャンプは標高四千百三十メートル。そこまで歩山することになった。その位の高さだと、登山を思う人も多いと思うが、あれは歩山。片道四日ほどかけて整備されたトレッキング道や村と村とを結ぶ生活道を歩いて行けば、だいたいの人は辿り着けると思う。現に九歳児が高山病にならずに歩き付けたのが何よりもの証拠。
もちろん高山病は人によるので、だれもが上手くいくとは限らないが、一日に上げる標高の上限を五百メートルにしておけば、被病率はかなり下がるだろう。
単純に標高だけで計れはしないが、目安として森林限界を超えても両手両足を使って登る場面がなければ、それは歩山と私は呼んでいる。富士山も歩山であるし、アフリカの最高峰も歩山と言えるだろう。
技術を必要とせずに、ただ歩いて上がっていく山行きを、私は歩山とし、自分の肩書きに歩山家を加えようかと真面目に検討中である。
そして、ヒーリングの一つとして歩山を勧めていこうとも思っている。低地での森歩きも素晴らしのだが、やはり少しずつ高度を上げて行き、有酸素運動量を増しつつ、植生の変化を愉しみながらの歩山はちょっと森歩きの先にあると思う。
古今東西古来より、山は聖なる土地とされてきたのは、やはり理由があるのだろう。山には神が住んでいると様々な伝説が語っている。そして、山そのものが神だとも。
その伝に寄るならば、きっとそこに住む生物たちも神の一部であるし、そこに入っていくことは、神に近づくことに違いない。
目に見えないものへの感度というのは、山に入ることで取り戻せるのではないか。本来備わっているはずの機能を再起動させて、自己治癒力を高めていく。生命力を高める。きっとそれは、街のジムでは、どうしたって得られない種類のもので、山こそが最高の場所ではないのか。
効率という言葉によって私達は無駄を省く習慣があるけれど、ゆっくり山を歩くことが、実は一番効率の良いセルフヒーリング法なのではないだろうか。綺麗な空気と山の神気。程よい運動。植物、動物からの平和な愛情。長寿な岩石の祈り。遠くからやって来る風。山ではそれぞれの存在があるべき形で生きている。
一カ所に集まりすぎることで、他者の姿を見すぎて自分を失った人間の一人が何かを快復するには、山の正しい存在に囲まれて、そこから影響を受けるのが、最も効率が良いことではないか。
私はヒマラヤを長男と毎日7、8時間も歩山しながら、不思議と日ごとに自分が強くなっていくのを感じていた。そして、健康になるということは、美しくなると同じだとも。
強く、美しく、そして優しく在りたい。私は、マチャプチャレやアンナプルナに囲まれて歩山しながら、そんなことをぼんやりとじっくりと感じていた。
だからと言って山に居続けるのではなく、山から街へ、海へ、川へ、谷へと歩き続けようと思った。
二足歩行という不思議な歩行を身につけてしまった人類の一個人がどこまで歩けるか、それをいつまでも愉しもうと丹田で願っている。
(つづく)

※『藤代冥砂「新月譚 ヒーリング放浪記」』は、新月の日に更新されます。
「#14」は2015年2月19日(木)アップ予定。

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