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なぜ日本人にあいさつは必要なのか

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pikarrrのブログ

今回はpikarrrさんのブログ『pikarrrのブログ』からご寄稿いただきました。

なぜ日本人にあいさつは必要なのか

あいさつしてる奴ってなんなの?『2ちゃんねる』より引用
http://academy6.2ch.net/test/read.cgi/philo/1262987885/
あいさつってのは自分に利益をもたらしてくれそうな相手、もしくは危害を加えてきそうな相手に対する点数稼ぎでありゴマスリにすぎない。

日本語はハイコンテクストな言語
英語など欧米言語と比較して日本語の特徴は主語が省略されることだ。言語学的にこの特徴は“場の共有”によると言われる。同じ場を共有していることが当然の前提とされているために主語を付ける必要がない。すなわち日本語はハイコンテクストな言語と言うわけだ。たとえば主語を付ける場合にも、“I”に対して、“私、オレ、ボク”など、場によって使い分けがなされるのも、コンテクスト重視の傾向だろう。さらに日本人のハイコンテクストを究極的に表すのが俳句だろう。俳句が伝えるのは当然、コンスタティブ(事実確認的)な意味ではなく、レトリカル(修辞的)な意味である。しかし単に言語学的なレトリックに収まりきれない世界観の伝達である。五七五の文字でなぜに世界観まで伝達しえるのか。いかに高いコンテクストの共有が前提とされているかわかる。

だから逆に日本人にすると、いちいち主語をつける西洋人の方が不思議である。コンテクストに関係なくだれに対しても“I“と主張する。彼らは空気を読まないのだろうか。しかしこのような個人主義的な“”からの切断力がなければいまのような科学技術も資本主義も民主主義もなかったのだろう。そして現代の日本語は明治以降の近代化で大きく変わった。西洋文化輸入と共に西洋語の翻訳的な言葉として“国語“が生まれた。この傾向は西洋の個人主義の導入によって日本人のハイコンテクストが解体されたというよりも、国民(ナショナリティ)を想起することで、特に日本においては集団主義によってハイコンテクストを強化した面が強いだろう。それが特に資本主義経済の生産性向上にも大きく貢献した。

なぜ日本人にあいさつは必要か
海外ではあいさつしない文化は多い。日本人のあいさつに関して言えば、ハイコンテクストな“いわずもがな”な社会だから、ぶっちゃけ省略しててもよいだろう。たとえば家族など身近では省略されてる場合が多い。しかしこれを社会全般に展開すると、“なあなあの甘え“が反乱して社会秩序を維持することがむずかしい。だから日本人はハイコンテクスト社会の“なあなあの甘え“へ落ち込みやすい傾向を、習慣の儀礼化によって抑止し、社会秩序を維持してきた。日本人がいまも形式的儀礼社会であるのはこのためだ。

これに対して、「もうあいさついらないだろう」とは、儀礼なくても社会秩序は保てるだろうということを意味する。なにによってか。資本主義的な経済的合理性によってである。いまの日本は経済的に成功し、経済的な合理性によって社会秩序が維持されている面が高い。ようするに「礼儀とかいうな、結果を出せばいいんだろ」ってことが、あいさつを疑う可能性を生んでいる。しかしこのような素朴な懐疑に、経済的合理性による問題が考慮されているか疑問である。経済的な秩序とは個人主義的自由競争社会である。だから結果が出なければ切られる。問題は結果をだしつづけられるのか、ということだ。反抗期はいいんだろうが、長い社会生活では経済的な合理性だけでは生きてはいけない。

さらに現代日本の経済的な成功は、日本人のハイコンテクストな形式的儀礼による規律・勤勉さと切り離せないだろう。だからハイコンテクストな日本で生きるには、経済的に成功する場合にも失敗した場合にも儀礼的な秩序を重視することは幸福にかなっている。
あいさつせず周りを不快にするぐらいなら、早めに海外に行くことをお勧めする。

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日本語の多くの文で主語としての「私」が要らないのは、「私」を音にする必要がないから、ということがここまででわかった。……月が出ている夜空を見ている二人がいて、そのうちの一人が言うとすれば「月が見える」である。「私は月が見える」は不自然である。これは、夜空を見ているという状況を二人が共有しているので、わざわざ「私は月が見える」と言わないのである。

日本語では、共同注視という認知状態から発話という言語状態に連続的に移れるので、わざわざ「私」という必要がないと言える。これに対して、英語では、共同注視という認知状態から、発話という言語状態に連続的に移れないので、わざわざ”I”と言わなければならないのである。

日本人は、認知的主体と言語的主体の連続性が大きく、認知的な部分と言語的な部分がなめらかに統合されている。これを言い換えれば、日本人の心は状況や環境に埋め込まれて度合いが大きいので、言葉で補う度合いが少なくてすむ、とも言える。

これに対して、イギリス人は認知的主体と言語的主体の連続性が小さく、認知的な部分と言語的な部分があまりなめらかに統合されていない。言い換えれば、イギリス人の心は状況や環境に埋め込まれている度合いが小さいので、言葉で補う度合いが大きくなるともいえる。
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『日本人の脳に主語はいらない』月本洋著 講談社 P201-204より引用
http://shop.kodansha.jp/bc2_bc/search_view.jsp?b=2584107

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日本語には非常に多くの一人称がある。私、わたくし、あたし、あたい、自分、僕、おれ、われ、わし、吾輩(わがはい)、拙者……。自分のことをどんな言葉で言うかは、その人の社会的立場や、その発話をする状況したいである。……日本語の「私」という言葉も、すでに社会的な色彩を帯びた言葉になっているのだろう。

「日本語の世界での自分という人は、相手という存在が作ってくれるひとつひとつの関係のなかでの、自分と相手とのあいだにある上下の位置関係を細かく計って確認し、そのような関係のなかでの話が交わされることをも確認した上で、その範囲内でのみ相手と話を交わしていく。(片岡)」

日本語の人称の多さは、認知主体と言語的主体が連続していることからも説明できる。・・・言語的主体が認知的主体の状況をひきずりながら表現されているのである。
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『日本人の脳に主語はいらない』月本洋著 講談社 P204-207より引用
http://shop.kodansha.jp/bc2_bc/search_view.jsp?b=2584107

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日本語の擬態語には「ヌルヌル」「ベタベタ」「グズグズ」といった反復表現が多用されているが、こうした傾向は東南アジア緒語には普通に見られる。これらに共通するのは、シニフィアン(記号表現)とシニフィエ(記号内容)との間に何らかの自然的な結びつきが見いだせる点である。・・・擬態語については、印欧語の場合、そもそも数が極めて少ない。

日本語を含む東南アジア諸語とアフリカのスワヒリ語などにおける擬態語の豊富さは、分析的で抽象的な語彙(ごい)によって現実世界に対する象徴的世界の自立を成し遂げた印欧語圏とは異なって、現実世界を引きずったまま、その内部に象徴的世界を埋め込む性向を示すものである。それだけ、言語自体にその身体的基礎の名残が付着しているといえる。

このオノマトペ(擬音語、擬態語)の具象性、体験性、感覚性といった特質は、一言で言うならば反抽象、反分析の傾向であり、現実をそのままに具体的かつ臨場的に体験したままに表現しようとする性向である。日本語の言説は、経験的現実から完全に自立することなく、現実のコンテクストに半ば埋め込まれているのである。オノマトペの多用といった点からするなら、日本語とは、現実世界=生活の現場(「場所」)に「参加」し、「内属」した立場と「視点」によって、そこで体験的に感受し、感得した事態をなるべく抽象することなく、具体的に、出来事の経過するがままに、連続的に、「生き生きと」描写するよう「動機付け」られた言語であるということができる
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『日本のコードー〈日本的〉なるものとは何か』 小林修一著 P19-22より引用 http://www.msz.co.jp/book/detail/07446.html

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<俗語革命>から十八世紀、遅いところでは十九世紀、二十世紀初頭にかけてヨーロッパがたどった道のりは、さまざまな「出版語」が、<国民国家>の言葉として次第に固定されていった道のりである。

さまざまな「出版語」が<国民国家> の言葉として固定されていくうちに、人間には、同じ言葉を共有する人たちとは同じ共同体に属する、という思いが生まれてくる。同じ「想像の共同体」に属するという思いが生まれてくる。すると、ナショナリズムが芽生えてくる。じきにそのナショナリズムは、隣国との戦争を重ねるうちに形成されつつあった<国民国家>によって、自覚的に利用されるものとなる。

このナショナリズムを育むのに大きく貢献したのが、新聞などの出版物であり、さらには、ほかならぬ<国民文学>である。<国民文学>は、<国民国家>という均質な空間に同時に生きる「国民」というものを想像させ、その「国民」に対して同胞愛をもつのを可能にする。そして、そのような<国民文学>をそもそも可能にしたのが、<国語>である。<国語>は、「出版語」が<国民国家>の言葉に転じたときに生まれたものだが、一度生まれてしまえば、「国民」がもつ国民性の本質的な表れだとされるようになる
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『日本語が亡びるときー英語の世紀の中で』 水村美苗著 P112-113より引用
http://www.chikumashobo.co.jp/product/9784480814968/

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日本は、非西洋にありながら、西洋で<国民文学>が盛んだった時代にたいして遅れずして<国民文学>が盛んになったという、極めてまれな国であった。

なぜもかくもはやばやと日本に<国民文学>が存在しえたのか。それは明治維新以降、日本語がはやばやと、名実ともに<国語>として成立しえたからにほかならない。それでは、そもそもなぜ日本語がはやばやと、名実ともに<国語>として成立しえたであろうか。

一つは日本の<書き言葉>が、漢文圏のなかの<現地語>でしかなかったにもかかわらず、日本人の文字生活のなかで、高い位置をしめ、成熟していたこと。もう一つは、明治維新以前の日本に、ベネディクト・アンダーソンがいう「印刷資本主義」がすでに存在し、その成熟していた日本の<書き言葉>が広く流通していたということ。
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『日本語が亡びるときー英語の世紀の中で』 水村美苗著 P156-158より引用
http://www.chikumashobo.co.jp/product/9784480814968/

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日本人が、日本語を他の外国語と本格的に比較するようになったのは、明治維新以降である。……西欧列強に追いつくための手段の一つが、日本語の英語化であった。学校教育や翻訳を通して、上から権力や権威を使って組織的に、日本語を改変してきた。

明治維新から百四十年あまり経った現在の日本語は、江戸末期の日本語とはずいぶん変わったものになってしまった。たとえば「私は日本人である」という文は、現在ではまったく普通の文である。しかし、この「〜は……である」という文は、明治時代に登場した表現であり、目新しくてハイカラな響きがしたようである。……また句点(。)も明治に作られた。

 明治維新のころを現在の日本人を比べれば、明治の日本人のほうが、より多くの場所の論理を用いた表現や思考をしていたのではないかと思う。学校の義務教育で模倣されることや翻訳文が数多流通することで、われわれの日本語は百四十年間を経て大きく変わってしまった。「主語」に対しても違和感がないし、私、彼、彼女等の人称代名詞も、それなりに日本かして定着きている
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『日本人の脳に主語はいらない』月本洋著 講談社 P233-235より引用
http://shop.kodansha.jp/bc2_bc/search_view.jsp?b=2584107

執筆: この記事はpikarrrさんのブログ『pikarrrのブログ』からご寄稿いただきました。

文責: ガジェット通信

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