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【著者に訊け】岡本和明 伝記読物『俺の喉は一声千両』語る

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【著者に訊け】岡本和明氏/『俺の喉は一声千両 天才浪曲師・桃中軒雲右衛門』/新潮社/2200円+税

 浪花節は意外にも維新後、東京で誕生した新しい芸能だという。当初は寄席にも上がれず、〈ヒラキ〉と呼ばれた葦簀(よしず)張りの小屋や野天が主な舞台。落語や歌舞伎を凌ぐほど人気を博すのは、明治も半ば以降のことだ。

 その中興の祖・桃中軒雲右衛門(とうちゅうけんくもえもん)が、『俺の喉は一声千両』の主人公。著者・岡本和明氏の曾祖父でもある。評伝というよりは小説風の伝記読み物といった趣だが、師匠の妻君と駆け落ちして東京を追われ、博多を拠点に再び東へ攻め上る間には、宮崎滔天(とうてん)や玄洋社・頭山満(とうやまみつる)といった傑物との出会いもあった。特に孫文の支援者でもあった滔天は、またの名を桃中軒牛右衛門。師匠を〈日本一の芸人〉にするべく奔走した愛弟子なのだ。

 実は浪花節が虐げられた理由は、その出自にあった。浪花節発祥の地・芝新網町は当時の東京三大貧民窟の一つ。だが、逆境をバネに雲右衛門は今日も呻る(うなる)!

 なぜ今浪花節? と訝る向きもあろうが、卑近な例では朝ドラ『花子とアン』で仲間由紀恵演じる蓮子のモデル・柳原白蓮と結ばれるのが、滔天の長男・龍介。また、日清・日露戦の勝利に沸く中、〈武士道鼓吹〉をキャッチに掲げた雲右衛門の十八番『義士伝』の完成には大アジア主義を標榜する政治結社・玄洋社の協力が不可欠で、時代と浪花節、近代と現代は、今も見えない形で繋がっているのだ。

「龍介は幼い頃、雲右衛門に浪花節を習ってますからね。個人的には滔天や雲右衛門にもぜひ朝ドラに登場してほしかった!(笑い)」

 もっとも『これが志ん生だ!』等で知られる岡本氏にとっても明治は遠い存在だった。家系的には氏の父方の祖母が雲右衛門の娘にあたるが、

「まだ父(超常現象研究家・中岡俊哉氏)が生きていた頃です。祖母の姉妹だという人から雲右衛門の墓の管理のことで突然電話があって、特に家の中で話題に上ることもなかった曾祖父が急に身近に思えたんですね。雲右衛門の名前は芸能の歴史に必ず出てくる。浪花節は定席や芸人の数でも落語や講談を大きく凌ぎますが、その中心にいたのが明治45年に伝説の歌舞伎座公演を大成功させた雲右衛門だったのです」

 彼の喉は高貴な人々をも魅了し、三味線の名手だった後の妻・お浜と編み出した斬新な節回しは伊藤博文や有栖川宮妃殿下が屋敷に彼を招いて聞き惚れたほど。その前段の不遇時代、20代の彼が旅に身を窶す第一部「彷徨」から物語は始まる。

〈「おいっ、小繁っ」〉と、まるで落語を思わせる会話の主は「吉川小繁」時代の雲右衛門と、横浜の顔役・澤野巳之助。小繁は明治9年、祭文語りの父と三味線弾きの母の間に高崎で生まれ、父が死んだ後は芝新網に身を寄せた。四谷鮫河橋、下谷万年町と並ぶこの貧民窟は特に芸人が多く、講釈師やちょぼくれたちの芸を耳で聞くうち彼も自分なりの節を身に着けたが、今一つ芽の出ない小繁に、巳之助はいっそ旅に出ることを勧める。

「諸説あるが、浪花節は屑拾いや門付芸人が集っていた芝新網町の混沌から生まれ、各々が勝手に語っていた関東節を、浪花亭駒吉が形にしたのが名の由来らしい。面白いのは関西でもこれと似た浮かれ節の人気が出てくるが、雲右衛門が宮様から御製まで下された事件に世間が驚いたのも、庶民すら卑下した最下層の芸が雲上人を魅了した落差を考えないと説明がつかないんです。そうした差別感情を従来の研究は妙に避けている節があるので、あえて逃げずに書きました」

 信州へと旅立った小繁は中京の重鎮・三河家梅車の妻・お浜が三味線の名手と聞き、早速梅車に弟子入りするが、夫の暴力に苦しむお浜と駆け落ちする格好に。東京では芸名を名乗ることを禁じられ、大阪でも食い詰めて逃げ帰る道中、ふと閃いた名が桃中軒。つまり沼津の駅弁屋の名だった!!

 そして孫文が第一次挙兵に失敗した7年後の明治35年、滔天が弟子入りしたことで運命は大きく変わる。

 玄洋社に金銭を含む全面援助を仰いだのも滔天なら、炭鉱夫や沖仲士の多い九州を拠点に選び、〈これからは新聞と映画の時代です〉と言って記事を書かせたのも滔天だ。が、滔天にしろ、彼が参謀役に据えた末永節にしろ、結局は雲右衛門の下を去る。浪花節不毛の地九州から東へ攻め上る自分たちを〈足利尊氏〉に準(なぞら)え、貧しい中で夢を語り合った蜜月の短さが何とも儚い。

「滔天は成功した雲右衛門と喧嘩別れしたとも言われますが、僕はそんな単純な話じゃないと思う。成功すればするほど取巻きが増えるのを見て、自分たちの夢は達成されたと、末永にしろ判断したんだろうと。つまり雲右衛門の置かれた立場が変わっただけで、人間の本質はそんなに変わらない。でなければ結核で倒れた雲右衛門を滔天がわざわざ看取るはずがありません」

 また、この時期、玄洋社傘下『九州日報』の協力を得て『義士伝』を完成させた際、彼は時代考証ばかりに拘る記者たちの草稿をこう突き返す。

〈真実は十の内五、六分もあれば十分〉〈人間の生活はそんなもんじゃあねえ〉

 そしてこうも言った。〈何度も耳で聞いて覚え、それを客の前で演ってみる。客も正直だ。よければ褒めてくれるし、又聞きに来てくれる。だが、その逆だったら見向きもされねえ。俺はそんな中で育ってきたんだ〉

 これこそ長く芸人たちの生き様に触れてきた著者の実感であり、脚色だろうか。

「まあ、そんなところです。確かに『元禄快挙録』を書いた福本日南らの資料的な裏付けのおかげで、彼の『義士伝』は完成度を高めましたが、それは市井の人間の心を知る雲右衛門が語ってこそ、客に届いたんです。

 太平洋戦争後、浪花節は戦意高揚に加担したとして嫌悪の対象にもなる。でも彼の『南部坂』は、昭和に入って軍部に迎合した各種演芸とは明らかに異質だし、その背後にあった雲右衛門の屈託や切磋琢磨、滔天たちの途方もない志が少しでも伝われば嬉しいですね」

 雲右衛門が滔天や末永を伴って芝新網を訪れ、〈俺の師匠は新網町だ〉と言ってしばし佇む場面など、それが事実であれ小説であれ、面白いものは面白い。特に何も持たない地点から何物かを作りだした時代の圧倒的熱量は眩暈(めまい)がするほどで、浪花節か、久々に聞いてみようかなと、奇しくも雲右衛門の100回忌にあたる今年、思うこと必至だ。

●岡本和明(おかもと・かずあき):1953年千葉県生まれ。父は超常現象研究家・中岡俊哉氏、曾祖父は桃中軒雲右衛門(明治9~大正5年)。「表紙の写真は九州時代、長崎で撮ったらしい。長い総髪がいかにも当時の大陸浪人風です」。幼い頃から落語に親しみ、演芸研究家に。『これが志ん生だ!』全11巻や『志ん朝と上方』『昭和の爆笑王 三遊亭歌笑』等、著書多数。子供向けの『らくご長屋』『江戸小ばなし』シリーズはロングセラー。174cm、70kg、A型。

(構成/橋本紀子)

※週刊ポスト2014年9月5日号


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