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「君、映画に出ないか」と社長に言われ俳優になった松方弘樹

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 松方弘樹といえば、時代劇スターの近衛十四郎でみずからも時代劇が似合う俳優だが、もともとは歌手志望で俳優になるつもりはなかったのだという。俳優になったいきさつから、主演俳優へと成長したいきさつについて松方が語った言葉を、映画史・時代劇研究家の春日太一氏がつづる連載『役者は言葉でてきている』からお届けする。

 * * *
 松方弘樹は1960年、東映の映画『十七歳の逆襲・暴力をぶっ潰せ』でデビューしている。当時の東映には父・近衛十四郎も在籍していた。

「16歳の時、僕は上京していました。歌手になりたくてね。作曲家の上原げんとさんの歌謡スタジオで内弟子をしていたんです。だから、役者になる気はまったくなかった。

 それで高校2年生の時にウチの父親と東映の契約更改の時に『学生服を着てお前も来い』と言われてね。行ったら大川博社長が『君、映画に出ないか』っていうことになって。ようは社長に会わすために僕を呼んだわけです。父親と母親には『歌を歌うにしても感情表現が必要だから、映画を一本ぐらいやっておいてもいいんじゃないか』って。詭弁なんですけど。

 そんないきさつだから映画を続けるつもりはありませんでした。でも、なかなか方向転換が上手くいかないの。当時は東映と第二東映というのがあって、それで週に2本ずつ映画を撮らないといけない。月に16本ですよ。そうすると、それだけ主役が要るわけですよ。第二東映には水木襄さん、梅宮辰夫さん、千葉真一さんがいて、『もっと若手を』ということで僕が入った。

 それで、次から次へ作品が来ているうちに歌と疎遠になっていってしまったんです」

 東映は東京の大泉と京都の太秦に2つの撮影所を所有している。東京は主に現代劇を、京都は主に時代劇を製作しており、松方がデビューしたのは東京だった。が、すぐに京都に移り、時代劇に出演することになる。

「ある時、大泉の正月作品で時代劇の鬘(かつら)を被ったんです。そしたら似合うというので、18歳の時に太秦に引っ張りこまれました。当時は(北大路)欣也と二人で売り出されました。あいつは『東映のプリンス』、僕は『東映の暴れん坊』ということでね。でも、客は全く入らなかった。

 当時は台本を覚えるので精一杯でした。5冊くらい抱えているわけだから。顔は同じままで衣装の鬘だけ変えて朝昼晩と違う現場を回りました。ですから、芝居の勉強というより、即実践でした。その代わり現場で下手を打ってばかりいて、僕だけ最後までよく残されていましたよ。

 相手役にしても丘さとみさん、花園ひろみさんとみんな先輩で上手くて、18歳の僕とはレベルが違うんです。それでも、監督さんたちが時には怒りながら丁寧に教えてくれました。誰に演技を教えてもらったというのはないですが、監督さんたちに手取り足取り教えていただいたというのはありますね。

 今は使い捨てなんですが、当時の映画会社にはスターを育てるというのが使命としてありました。五社協定というのがあって、自前でスターを作らずにヨソから引っ張ってきたら高くつくんです。そういうシステムの時代にこの業界に入ったんです。

 僕は40歳になった時に『修羅の群れ』に主演できましたが、そこへたどり着くまで結構大事に、いい作品に出させてもらいました。今はもう、そういうシステムはない。映画会社が自前で映画を作りませんからね」

●春日太一(かすが・たいち)/1977年、東京都生まれ。映画史・時代劇研究家。著書に『天才 勝新太郎』(文春新書)、『仲代達矢が語る日本映画黄金時代』(PHP新書)、『あかんやつら~東映京都撮影所血風録』(文芸春秋刊)ほか。

※週刊ポスト2014年7月25日・8月1日号

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