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【著者に訊け】吉田修一 市橋達也事件念頭に置いた『怒り』

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【著者に訊け】吉田修一氏/『怒り(上・下)』/中央公論新社/各1260円

 角度や社会性を孕(はら)む「3」が、絶妙に奏功した作品だ。房総半島の港町・浜崎に暮らす〈洋平〉〈愛子〉親子の前に現れた、まじめだが過去を語らない青年〈田代〉。大手通信会社に勤務する〈優馬〉が、ある時〈発展場〉で出会った〈直人〉。わけあって沖縄・波留間島に母と身を寄せた高校生〈泉〉が、無人島の廃墟で出会う謎の男〈田中〉……。

 この3人の身元不詳の男を巡り、千葉・東京・沖縄の3地点に同時進行で隣り合う物語を、吉田修一氏の最新作『怒り』は描く。

 発端は1年前に八王子で起きた夫婦惨殺事件。現場に〈怒〉と書き殴った血文字を残し、現在も逃亡中の犯人〈山神一也〉は、大阪市内の整形外科で顔を変え、目撃情報は全国各地に及ぶ。

 実は自分の知るこの男が山神ではないかと、社会の隅々に疑念が広がってゆく光景を、「3」は皮肉なまでに象徴していた。果たして山神は田代か直人か田中か。いや、“3分の0”であってほしいと願わずにいられないほど、誰かを信じたいのに信じきれずにいる人々の“信頼”を巡る物語である。吉田氏はこう語る。

「念頭にあったのはお察しの通り市橋達也の事件です。といっても僕は彼の2年半に及ぶ逃亡劇や事件そのものより、目撃情報の通報者に興味があった。街で似た男を見た程度ならともかく、身近な人間に対して疑念が生まれていく“事件の遠景”に胸騒ぎを覚えたんですね。

 当初は立場や関係の違う設定を十数通り考えたんですが、さすがに全部は書き切れず、絞った結果がこの3地点。そして3人のうち犯人を誰にするかも決めないまま、彼らの正体を巡って引き起こされる人間模様を書き進めていきました」

〈犯行後、男は六時間も現場に留まり、そのほとんどを全裸で過ごしている〉

 帰宅直後の保育士及びその夫を殺害し、熱帯夜にエアコンのスイッチを探してか部屋中に指紋を残した立川市の無職、山神一也、28歳は、八王子署〈北見〉らの捜査を逃れ、姿を消した。左利き。右頬に3つのほくろ。また自宅に〈ゲイイベント〉の予定が残されていたことから女装の想定写真も公開し、テレビの公開捜査番組でも情報を募集したが、足跡は依然断片的だ。

 そんな中、浜崎では愛子が漁協に勤める父・洋平と田代に毎日せっせと弁当を届け、東京・桜新町にある優馬のマンションには新宿の発展場で一夜限りの関係を持った直人がなぜか転がり込んでいる。

 洋平は人を疑うことを知らない愛子をつい先日も歌舞伎町のソープから連れ戻し、2か月前から港に居着いた田代に好意を寄せる娘をどこか諦めがちに見ていた。一方優馬も仕事や家族関係に恵まれながらゲイゆえに孤独を抱え、刹那的快楽に逃げこんできたが、今では無口でどこの誰とも知れない直人を〈自分より大切〉だとすら思う。

 例えばある日の仕事帰り、優馬は両手にコンビニ袋を提げて歩く直人を見かけたのだ。袋の中で傾く弁当を彼は水平に保ちたいらしく、よろよろ歩いては立ち止まり、弁当を膝で立て直そうとする姿に笑いを堪えながら優馬はふと思う。〈相手の何を知れば、そいつを信じられるのか〉〈まさか、この姿じゃないよな〉〈この後ろ姿で相手のことを信じろってのは無理だよな〉……。

 優馬そして洋平たちも、目の前のその姿を信じてしまえばよかったのだ。相手を信じる条件や担保を求めるあまり、彼らはせっかくの信頼に自らヒビを入れ、傍から見れば奇蹟にも映る関係が失われるのは、何も本書の3地点に限らない。

「結局は相手を信じるしかないんですけど、その信頼の根が意外と脆弱なんですよね。タイトルも山神の怒りというよりは、大切な人を信じきれない自分に対する怒りで、洋平は愛子が幸せになることをどこかで信じきれず、優馬にしてもがんで入院中の母親に対する思いまで共有してくれる直人を恋人と呼べずにいる。その愛情や信頼を認めたい心に何かが蓋をする。要するに〈自信〉がないんです」

 一方泉と同級生の〈辰哉〉にも悲劇が待つ。あるとき那覇で米兵に襲われた泉との約束を彼は彼なりのやり方で守ろうとし、なおも信じあう彼らに試練を与える作家の非情を恨みたくなる。

「ですよね……。ただそれも含めて“隣町に降っている雨”みたいな部分はあると思うんですね。この中に沖縄と東京と千葉を通過する〈台風〉が出てきますが、僕らはよその町で降る雨の、傘までは心配しない。でも山神の事件が方々で信頼を蝕むように何かしら関係はあって、基地や原発問題もたぶん構図は同じなんで」

 若い泉や辰哉はもちろん、自分で自分に蓋をする優馬や洋平が、言葉にできない感情を持て余し、あるいは言葉に背かれる瞬間を氏は丁寧に掬い取り、それこそ言葉に対して全幅の信頼を置いていないかにも映る。

「確かに疑ぐり深くはありますね。例えば僕は誰かを苦手だなと思った次の瞬間、『話してみたら何てイイ人だ』と思ったり、情けないくらい意見がコロコロ変わる(笑い)。でも物事の見え方は場所や距離次第で変わるものだし、自分の言うことが常に正解だと疑わずにいられる人が眩しいくらい。要は自分に自信がないだけですけど、だから人は人を信じたいとも思えるんだし、僕の場合は小説を書くんだと思います」

 そんな吉田氏が描く事件の遠景にいつしか心は奪われ、彼らの関係を何とかして守りたいと思うほど愛してしまう。そのとき隣の雨はもう、私たちの雨だ。

【著者プロフィール】
 吉田修一(よしだ・しゅういち):1968年長崎県生まれ。法政大学経営学部卒。1997年『最後の息子』で第84回文學界新人賞を受賞しデビュー。2002年『パレード』で第15回山本周五郎賞、『パーク・ライフ』で第127回芥川賞をジャンルを超えて受賞し、話題に。2007年『悪人』で第61回毎日出版文化賞と第34回大佛次郎賞、2010年『横道世之介』で第23回柴田錬三郎賞。映画『悪人』では脚本も担当し、『さよなら渓谷』など映画化作品多数。174cm、63kg、O型。

(構成/橋本紀子)

※週刊ポスト2014年2月28日号

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