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『千日の瑠璃』496日目——私は日差しだ。(丸山健二小説連載)

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私は日差しだ。

天気に恵まれた朝の一時間ほどその小部屋を暖め、思い煩う前途を打ち消す、冬の弱い日差しだ。それでも体が衰弱して歩行が困難になってしまった老女は、窓辺に置いた硬い椅子に腰をおろして、私を待ち焦がれていた。気難しい年寄りと、彼女が愛してやまない花を、私は誠心誠意暖めた。彼女は、もはや心火を燃やすことがない皺だらけの魂を安心して私に委ね、鉢植えの桜草は、私に向ってしぶとい命をいっぱいに伸ばしてきた。

心が浮き立った老女はやがて、いつもの情けない声で女学生時代の友の氏名を列挙した。しかし、自分では数十の名前を正しく記憶しており、片っ端から口にしているつもりでも、実際にはほんの数人の名前を反復しているにすぎなかった。ついで彼女は、すでにこの世にいない友の裏切りを水に流し、矢のように浴びせられた刺々しい言葉を一笑に付し、特に親しかったいくたりかと連れ立って湖畔を散策した、過ぎ去りし日々をひしとかき抱いた。酒乱の癖を生涯矯めることができずに死んでいった夫の罵声が遠のき、決して楽ではない暮らし向きの底に淀む自戒の言葉の断片が薄れて、彼女はしばし佳境に遊んだ。

そして時間切れとなり、私は去らなければならなくなった。だが、心配には及ばなかった。そこへ少年世一が現われた。私とほぼ同格のものを世一にも認めている老女は、ぐっと窓の方へ身を乗り出し、花もそれに倣った。
(2・8・木)

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