『千日の瑠璃』490日目——私は肺だ。(丸山健二小説連載)

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私は肺だ。

多種多様でありながら単純明快に生きる人々の吐いた空気を、思い切り吸いこんでは浄化する、少年世一の肺だ。だからといって、私のなかに遣り切れない汚臭が濃縮されてこびりついていると考えるのは、大きな間違いだ。そうすることで私自身が却って浄化され、肉体はともかく、魂は育ってゆく。つまり、ある種の同化作用といえるかもしれない。

私は無益な争いを吸い取って、平和の瑞相を吐き出す。私をひっきりなしに出入りする、善と悪との、陰と陽との極小の粒子は、その配列をほんの少し組み替えてやるだけで正反対のものと化し、生まれ変ってふたたびまほろ町へと拡散して行く。そしてそのあとの私には、野山に満ちる秋気のような爽快さが残るのだ。そう私は信じたい。そうであってほしいと、私はのべつ願っている。

しかし、いつもそんなにうまくゆくとは限らない。きょうの私は、穏当を欠く言動を吸収し切れず、よくない風説を持て余し、むしろ濁ってしまった空気といっしょに吐き出した。それはどこにでもいそうな野良犬の肺へ入り、するとそいつの眼はいっぺんに吊りあがり、たまたま近くを歩いていた人々に猛然と襲いかかり、雑菌だらけの牙を突き立てた。そして盲目の少女が十人目の犠牲者になりかけたとき、新調したスーツに長身を包む青年の右の腕が眼にもとまらぬ速さで動き、その刹那、野良犬は匕首のひと突きで絶命した。
(2・2・金)

丸山健二×ガジェット通信

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