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「差別される人々」はいつ生まれたのか(歴史作家 関裕二)

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※この記事は国際情報サイト『Foresight』より転載させていただいたものです。 http://www.fsight.jp[リンク]

「差別」について、考えてみたい。
 差別される人々が、いつ、どこで、なぜ生まれたのか、はっきりしたことは分かっていない。ひとつ分かっているのは、中世の段階で私的隷属を嫌った人々が、天皇と深く結びついていたということ、そして、何者にも支配されず自由に暮らす彼らが、被差別民になっていったという事実である。

孝謙女帝の「奴隷解放」

 各地を遍歴し漂泊する勧進、芸能民、遊女(うかれめ)、鋳物師(いもじ)、木地屋、薬売りなどの商人、工人、職人などの非農耕民は、「捕らえ所がなく、税の徴収が難しい」ことから、普通の農民(良民)たちとは区別されるようになっていった。

 遍歴する人々=被差別民の多くは、供御人(くごにん)の流れを汲んでいると信じられていた。「供御」とは、「天皇の食事」のことで、天皇家に供御を献上したり、奉仕をする人たちが供御人だ。供御人は見返りに、通行の自由、税や諸役の免除、私的隷属からの解放という特権を天皇から獲得していたのである。

 ではなぜ、頂点の天皇と最下層の差別される人々が、結びついたのだろう。

 具体的なきっかけがあったのではないか……。それが、天平宝字2年(758)7月3日のことだったと、筆者は睨んでいる。平城京(奈良市)に都が置かれた時代のことだ。

 この日、孝謙女帝は「思うところがあって」と勅(みことのり)を発し、朝廷が管轄する奴婢(ぬひ)を良民にすると、宣言したのだ。「奴婢」とは、古墳時代から飛鳥時代にかけて存在した賤民をさす。物のように扱われ、売買もされたようだ。だから、孝謙女帝の勅は、日本版奴隷解放といったところか。

 孝謙女帝の父母・聖武天皇と光明子も、貧しい者たちに温かい手をさしのべていたから、この勅は、親子が目指した理想とみなすことができる。こののち、各地の奴婢も、次第に良民に組み込まれていくようになり、奴婢は消滅するのだ。ただし、ここから、新たな被差別民が生まれていくことになる。
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優婆塞と手を組んだ聖武天皇

 ではこの先、誰が差別されていくのだろう。

 皮肉なことに、貧しい人々を救済しようとした聖武天皇と孝謙女帝が、今日につづく被差別民を生み落としたようなのだ。それが、優婆塞(うばそく)である。

 優婆塞とは、「律令の枠組みからはずれていった人たち」だった。律令制度が整い戸籍が作られると、人々は土地に縛られるようになった。国から与えられた農地を耕し、一定の税を納め、労役や兵役に駆り出されたのだ。ところが、土地を離れ、放浪し、公役から逃れようとする者が現れた。勝手に僧(私度僧、優婆塞、乞食坊主)になって、都周辺にたむろするようにもなった。重税もさることながら、税を直接都まで運ぶという作業に耐えられなかったようだ。行き倒れになる人も続出した。借金がかさんで、夜逃げした人々も多かった。干魃や天変地異に苦しめられた時代だから、彼らを責めることは、酷である。

 奈良時代には、数千人から1万人にのぼる優婆塞が、平城京の東の山にたむろし、気勢をあげていたという。これを放置しておけば、国家の基盤が危うくなる。だから、朝廷は彼らを非難し、弾圧したのである。

 ところが聖武天皇は、あろうことか、優婆塞たちと手を組んでしまうのだ。優婆塞のリーダーである行基を、大僧正(仏教界の最高位)に大抜擢している。東大寺建立が成し遂げられたのは、行基や優婆塞の協力による。聖武天皇は、優婆塞や行基を優遇し、特別扱いしたのだ。

 目的は弱者救済だけではない。独裁権力を獲得しつつあった藤原氏に対抗するためだ。「天皇を傀儡にして天皇の権威を悪用する藤原氏」を、聖武天皇はとことん嫌い、優婆塞の力を活用しようと考えたのである。

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