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『千日の瑠璃』425日目——私はサイドカーだ。(丸山健二小説連載)

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私はサイドカーだ。

急に金回りがよくなった若夫婦が現金の一括払いで購入した、こうした田舎町では振り返らぬ者はない、ドイツ製のサイドカーだ。いよいよ私が走り出すと、免許取り立ての夫の運転では心もとない、と言ってびくびくしていた女の緊張は次第に解れ、往還の激しい街道へ出てもあまり動じなくなり、やがて彼女は、時速八〇キロの速度や解放の錯覚を相手に晴れ晴れと朗笑した。

自信を深めたライダーは顔に似合わぬ蛮声を張りあげ、臆する色もなく一気にスロットルを開けた。すると、山に登って浩然の気を養ったときの少年時代の気分が甦り、誰にも何にも依存しないで生きてゆかれる道がすぐそこに見え、青春の基底をなすものが判明し、これを以て自由の嚆矢とするという思いが強まった。ふたりの胸につけられた揃いのバッジ、青い鳥が眉唾物のさえずりを始めた。

私の嗜好に適う速度に近づくにつれて、ふたりの声と二羽の声が高まり、正邪曲直を峻別する何者かの眼を恐れる気持ちが薄れ、風と共にぶつかる幸運がはっきり自覚でき、親と教師と擬制の政府によって注入されつづけ、率然たる行動を厳しく戒める道徳の類いが、排気音といっしょに遠い過去へ向って吹き飛んだ。「曲る方へ体を傾けろ!」と若い男は叫んだ。若い女はその通りにした。そして私は、歩くことがやっとの、しかし不具者ではない少年に青いガスを浴びせて、どっどっどっと走り去った。
(11・29・水)

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