ガジェット通信 GetNews

見たことのないものを見に行こう

「日産 その栄光と屈辱」佐藤正明氏講演 2012年10月17日八重洲ブックセンターにて

DATE: BY:
  • ガジェット通信 GetNewsを≫

さる10月17日、八重洲ブックセンター本店にて開催された
「日産 その栄光と屈辱」
著者佐藤正明氏の出版記念講演記録書起し全篇です。

「日産 その栄光と屈辱」佐藤正明氏講演 2012年10月17日八重洲ブックセンターにて 「日産 その栄光と屈辱」佐藤正明氏講演 2012年10月17日八重洲ブックセンターにて

amazon
はじめまして、佐藤正明です。日経BPを退社して5~6年たち、今は表参道ヒルズの上に個人事務所を置いています。
なんでそんなところに事務所を置いているのかというと、やはり静かだからです。下はざわざわしていますが、上はものすごく静かです。
僕が取材する人たちビジネス街にいて、表参道で仕事をすることなどない人たちばかりです。僕も新聞記者をやっている時に、表参道で酒を飲んだ経験など1回もありませんでした。
そういうところにいると、物珍しさで人が来てくれる。本当は僕が取材先に出向くべき時でも、相手から来てくれるわけで、ありがたく思っています。

僕は 1日に2万歩を歩くことを目標にしています。2万歩というのは 1時間で8千歩ですから 、2時間半ぐらいということです。
人から何でそんなバカなことをやっているのかと言われますけど、48歳の時にギックリ腰をやったからです。ゴルフをやっていて、ボールを置いた時にガクッと来た。その場はたいしたことないと思って予定どおりアメリカに出張に行ったのですが、痛くて痛くて・・・。これはギックリ腰だなということで、帰国後このビル(八重洲ブックセンター本店)の隣にホンダの旧本社の中にカイロプラクティックの治療所があり、ある人の紹介でそこの先生に診てもらったんです。
なぜホンダのビルの中にというと、本田宗一郎さんもギックリ腰で四谷の治療院に行っていたけど、そこまで行くのが面倒臭くて「ホンダのビルでやってくれ」ということでビルの中に治療院を入れたわけです。
僕がその先生に言われたのは、カイロプラクティックというのは骨をボキボキ矯正するだけでなく、あとは自然治癒、本人の自覚の問題だと。そのためには1日に1万5千歩、歩きなさいと。
1日1万5千歩を続けていれば、あなたと私は生きている間は顔を合わせる必要がないでしょうと言うんです。その後、1万5千歩も中途半端だなと思って、2万歩を歩くことにしたわけです。
勤めているときは毎朝 1時間から1時間半ぐらい歩いていました。通勤がなくなって表参道で仕事をしていると、なかなか外へ出る機会がないので、2時間は歩くということにしたわけです。
やはり効果は抜群です。その先生は亡くなりましたが、おかげさまで2万歩を歩いていると、その後ギックリ腰はまったくなくなりました。
あと、僕は本当にズボラな人間です。ズボラな人間だから、新聞記者時代から取材の時にメモを取らない。取材か雑談か訳の分からない方法をとるほうが、むしろ相手の本音が聞きとりやすいんです。
今まで本を何冊も出しましたけど、それを書くときもスケルトンに引っ張られるのが嫌なので、一切作らないできました。
ではどうするのか。散歩の間に考えるということですね。本の構成や表現を 2時間の散歩中に考えるんです。ただ、紙もペンも持って行きませんから、家に帰ると忘れてしまっていることが大半で、2割ほど残っていればいい方です。でも、それでいいと思ってやっています。

新聞記者時代の取材というのは、相手との真剣勝負でした。だから複数ではなく、一人でやる。キャップ時代には、原則的に昼間の取材はサブキャップ以下に任せてしまう。僕自身は、必要とあれば夜回りをするやり方でした。
新聞記者の醍醐味というのは、特ダネをモノにすることです。といっても、特ダネは天からは絶対に降ってこない。ライバル紙の人は、日経の特ダネというのは相手企業から持ち込まれるんじゃないか、転がり込んでくるんじゃないか、という人が結構いますが、これは偏見であって、そんなことは一回もないです。
僕の新聞記者としての転機は、昭和50年に自動車を担当したことです。当時は石油ショックの後で、大変な時代でした。東洋工業(現マツダ)が潰れるのではないかといわれていた時代です。
仮にマツダが潰れれば、中国地方の経済がハチャメチャになってしまうという危機感があった。当時のデスクから「他の仕事は何もしなくていいから、とにかくマツダだけをやれ、抜かれたら許さないぞ」と言われて、実際はほかの仕事もやりましたが、仕事の中心はマツダでした。
マツダの本社は広島にあるわけですが、毎日広島に行けるはずもないし、社長の松田耕平さんがいつでも会ってくれるわけでもないです。調べた結果わかったのは、メーンバンクの住友銀行でマツダ再建の最高指揮を取っているのが、当時専務だった磯田一郎さんだということ。この人は後で頭取になって「住友銀行中興の祖」と言われるんですけれども、当時はまだ無名です。
そこで彼が東京へ来るときは夜に必ず会いに行き、毎晩ホテルのロビーで待っているのです。そしてまた次の朝も行く。延べ 1年間で 100回ほど会いました。
話を聴いていると、住友銀行はどうやってマツダを再建するか、ものすごく真剣に考えているのだけれど、自分たちだけでは動けない。それで雑談している間に、トヨタや日産にこういう点で助けてもらいたいのだが、打診してもらえないか、と頼まれるのです。磯田さんに頼まれて行ったり来たり、丁稚みたいなことやっていたわけです。なんやかんやで100回ほど会ったのですが、たわけですとは要するに僕の回答を期待しているわけです残念ながら特ダネは読売に抜かれちゃった。
読売新聞の一面トップで抜かれて、当然デスクにはカンカンに怒られました。僕も腹いせといってはなんですが、磯田さんからマツダをどう持っていくかという遠大な構想は聞いていたので、嫌味な囲み記事を書いて、そこに磯田さんの写真を使ってキャプションに「東洋工業の影の社長」と入れたんです。実際、影の社長だったんですから。
ただし、磯田さんはそれがいたく気に入らなかったらしくて、記事が出た翌日の夜中の2時頃、僕の家にグデングデンに酔っぱらって電話をしてきたのです。「お前は馬鹿だ、クビにしてやる」とまで言うから、僕も「天下の住銀の役員さんがそんなこと言っちゃダメだよ」と言い返しました。
後に住友銀行の頭取になられる当時常務の巽外夫(たつみ・そとお)さんとも、しょっちゅう会って情報交換をしていました。磯田さんとの電話の1週間後くらいに会った時、「佐藤さん、磯田があなたのことを電話で怒鳴りとばしたそうですが、なんであの人が怒ったか、理由がわかりますか?」というので、「東洋工業の影の社長と書いたのがお気に召さなかったようです」というと、「その通りだ」と言われました。
僕が書いた新聞記事を見て、当時の頭取、伊部恭之助さんが「こういう案もあるんだ」と呟いたらしく、それが磯田さんの耳にも入った。というのも、本人はいずれ住友銀行の頭取になるつもりですから、将来東洋工業の社長に出されたらたまったもんじゃない。それで僕に八つ当たりしたのが真相じゃないかなと思っています。
実際、そういう事例はあるんですね。興銀に名頭取で中山素平さんという方がいたんですけれども、その下に大原栄一さんという常務がいました。中山さんが「財界の鞍馬天狗」、大原さんが「小天狗」と言われていたんです。
それで、日産と興銀が富士重工を傘下に収めた時、大原さんを富士重工に出したんですね。大原さんは1~2年で帰ってきて将来は興銀の頭取になるんだと思っていたら、それが一生の片道切符になってしまった。これは銀行や自動車業界の皆が知っている話ですが、磯田さんは大原さんの二の舞いになるのを恐れたのではないかと思います。
それから20年後、経団連のパーティーで磯田さんとばったり会って、向うもさすがに頭を下げなかったけれども覚えていて、こちらが「お元気ですか?」と言うと、「昔は君にも失礼をしたね」などと言っていました。
東洋工業の取材を1年間やって、結局は抜かれてしまったということですが、上司からそれだけやれと命令されても磯田さんと会う時間は限られていたので、その間にトヨタの花井正八さん、伊藤忠の瀬島龍三さん、広島生まれで新日本製鐵名誉会長、日本商工会議所会頭の永野重雄さんなどと知り合うことができ、結果としては人脈づくりに大いに役立ちました。

後に僕がトヨタに深く食い込むことができたのは、磯田さん頼まれてトヨタに提携の打診をしたのがきっかけです。
石油ショックの前、トヨタはロータリーエンジンをマツダから購入してクラウンに乗せるという交渉をやっていたのです。ところが石油ショックが起きて、「ロータリーエンジンは石油をがぶ飲みする」という評価が立ってしまい、中断になっていた。磯田さんの提案というのは、要するにそれが再開できないかということで、事実上の支援要請でした。僕はトヨタの花井正八さんにこの話を持っていき、それを花井さんが真剣に検討してくれて、それ以降仲が良くなったわけです。
花井さんという人は、僕と会う時、広報の人を絶対に立ち会わせなかった。なぜかというと、広報の人がいると役員のお目付け役になってしまうからです。聞く方は何でも聞きけますが、答える方は答えにくい。従って広報の人を同席させないのが花井さんの方針でした。もちろん花井さんには花井さんで狙いがあって、僕から他社の動向を探りたいというのがあったわけです。
後にトヨタ自工と自販の合併話があった時、花井さんは会長で、合併後の新会社の役員人事の案を練っていました。そして合併後の新会社の役員に絶対したくないという人に、後に社長、会長になる奥田さんが入っていた。花井さんは奥田さんのことを「駄目だ、この男は」と言うのです。「なぜですか」と聞くと、「フィリピンから東京へ帰ってきてもマージャンとゴルフばかりしていて、遊んでばっかりじゃないか」ということを言うのです。
僕はその前からちょっと奥田さんを知っていたので、「花井さん、それは違う」と言いました。もちうろん花井さんは花井さんで独自に情報を集めてさせているわけですが、「花井さんの情報は間違っているんじゃないですか、花井さんは奥田さんにまだ会ったことはないでしょう、直接会ってみたらいいですよ。会ってみてだめだったら役員にしなくてもいいじゃないですか」ということを言ったのです。そして実際に会ってみたら、花井さんは「自分の情報が間違っていた、あいつはたいした男だ」と言い出して、それで豊田英二さんにも会ってもらったのです。
花井さんと豊田英二さんの二人の協議で、奥田さんには役員就任直後から帝王学を学ばせることになりました。元々奥田さんは経理屋で数字にはむちゃくちゃ強いが、経理部長と大喧嘩してフィリピンに飛ばされたという経緯があるんですが、その彼に帝王学を学ばせようということで、国内販売から海外事業、購買、商品企画まで、すべてを見させていった。僕の知っている限り、トヨタで帝王学を学んだ奥田さんだけだろうと思います。

トヨタの人事でひとつ面白い話をしましょう。その昔、トヨタ自販に「販売の神様」とよばれていた神谷正太郎という方がいました。この人がいつ辞めるかが、マスコミで大きな話題となっていました。僕が日経の産業面のトップで書いたのは、「販売の神様(50年)11月28日に退任」という断定的なものでした。僕も若かったから、ただ単に退任するという記事ではなく、何月何日まで書いてしまった。実はこれには理由があって、神谷さんという人はとにかく縁起を担ぐ人で、新車発表の日は全て大安吉日、しかも末広がりの 8のつく日。
花井さんから「神谷さんはいつも横浜にいる易者さんに診てもらう」と言う話を聞いたので、そこに行って「神谷さんは最近来ましたか?」と尋ねたら、「来ましたよ」というので暦を見たところ、11月の28日が大安ということなので、思い切って11月28日に退任ということを書いたわけです。
僕は記事に自信を持っていいました、トヨタ自販が出したコメントは、「当社にはそういう事実はございません」というものだった。神谷さんに言わせれば、「たかだか新聞記者が俺のやめる日付まで書くとはけしからん」そう思ったらしいです。
僕は後の退任日は 8がついて大安なのは12月8日なので、そこまで書いてやろうと思ったのですが、その時はさすがに花井さんから、「佐藤君やめてくれ、この機会を逃すと来年の4月まで大安吉日で 8のつく日がないし、計画がむちゃくちゃになってしまう」と言われたのでさすがに見送りました。神谷さんは12月8日に退任しました。
よく取材先の人に言われることは、「なんで新聞記者はあんなにトップ人事取材に力を入れるのだ。そんなのは発表を待って書けばいいじゃないか、必ず発表するのだから」ということです。
それでも人事取材というのは大事なのです。これは記者教育として必ず必要なのです。
取材先の会社に行って「次の社長は誰ですか?」なんて聞いても、絶対に教えてくれない。だから取材先や関係者に夜回りして、その過程でその会社の動向や実態にも理解が及んでいくのです。
僕は比較的人事は得意な方だった。得意だというのは、要するに人間は「喋りたい動物」だと思っているからです。そう思って取材すると、必ず抜けるのです。最後には確認をとりますけど、先ほど話したように冗談か本気かわからないような取材の中で、たとえは悪いけれども、公衆の面前相手のポケットから財布を抜くようなものだと思っています。
ただ、一度だけ、大きな人事をライバル紙に抜かれたというより、抜かせたことがあります。トヨタの今の名誉会長豊田章一郎さんがトヨタ自工の副社長からトヨタ自販の社長に転籍する時、この人事は絶対に間違いないと思って予定原稿も書いていたのです。掲載する前に花井さんに会って最終確認を取ろうとしたのですが、花井さんは「もうこれから佐藤と会わない」というのです。どうやら「佐藤のことだから章一郎さんがトヨタ自販の社長なるということは工販合併への布石」ということまで書いてしまうことを恐れたらしい。だけど、「わし認めない限りは書けないだろう」と思ったのでしょう。
工販合併ができるかどうかは、豊田章一郎さんが自販の社内をまとめることができるか、さらには工販合併が手続的に可能かどうかを調べるのに半年はかかります。それを調べる前から記事にされたら、できる話もできなくなるというわけで、花井さんも相当慎重になっていたわけです。
そこで僕が思ったのは、「この人事は他社に抜かれてもいい。ただし、工販合併のニュースは必ず私が抜きますよ」というシグナルを花井さんに送りました。
結果的にこの人事は日刊工業新聞に抜かれてしまいました。しかし、トヨタは「そんな事実はありません」と否定します。他の新聞はというと、トヨタが否定するものだから、後追いの記事は書きにくい。間違いない人事なら、抜いた記者に敬意を払わなければならない。
それで僕はデスクに「ごめんなさい、日刊工業に抜かれたので、すぐに早版から入れて下さい。もう原稿はできていますから」と言って、日経の夕刊の早版に入れてもらった。日経が早番辛追随した以上、トヨタ自販も夕方の記者会見で認めざるを得なかった。
なんで僕が自販の社長人事を抜くことにこだわらなかったかというと、それよりも大きい「トヨタ自工・自販合併」というニュースどうしてもモノにしたかったからです。なぜかというと、僕がキャップをやっている時、「抜かれの三度笠」の時代があったからです。
80年の1月にホンダがアメリカに工場を建設するというのは僕が抜いたのですが、その後は立て続けに抜かれてしまいました。
その年の6月には、ヨタとフォードの提携をNHKに抜かれてしまった。その日はNHKはこともあろうに、大平総理が亡くなってカーター大統領が国葬のために来日した日の夜7時のトップニュースがトヨタとフォードの提携、大統領来日は2番目の扱いでした。
さすがに僕もこれには驚きましたが、独占禁止法の問題もあるのでまとまるかなと思い、その後、この問題を徹底的に研究して最終的には無理だと判断して、2カ月後にその問題点を僕の署名入りで書きました。結果的には提携をつぶすような形になったので NHK には申し訳ないことをしたなと思うけど、たとえ僕が書かなくてもこの提携はだめになっていたでしょう。取材してみると、トヨタは提携に向けての下準備をほとんどしていなかったことも分かりましたから。
81年の秋には、フォルクスワーゲンと日産の提携話を毎日新聞に抜かれ、石原俊社長がその日の夕方に記者会見をしました。その次は、日産のイギリス進出も外電に抜かれました。
日経新聞の社内的には企業ニュースに関しては、「抜いて当たり前、抜かれたら恥」という社風があります。にもかかわらず僕は立て続けに3つも抜かれてしまったので、トヨタ自販のトップ人事より、その先にある自工と自販の合併をどうしてもスクープしたかったわけです。
その後、81年の11月にトヨタとフォードとの提携話が駄目になったのを受けて、トヨタは対米進出の次の一手として、GMとの提携を考え始めた。しかし、トヨタにはその「つて」がない。僕は頻繁に情報交換をしていたトヨタ自販の神尾秀雄からその話を聞いて、当時の伊藤忠の開発部長していたチャイさんを紹介して 3人で食事をしました。
たまたまその直前に、共和党の大統領就任が決まりました。カーターさんが再選すればトヨタとGMの提携は全く出来なかったでしょう。しかし、レーガンさんは「強いアメリカの再生」を掲げて当選しましたので、可能性はあると睨んだのです。
僕は最初にメモを取らない主義と言いましたが、この時ばかりはちゃんとメモをとっていました。トヨタが何を考えているかをGMのほうに正確に伝えていかなければいけない、これに対して GMはどういう考えているかをトヨタにちゃんと伝えなければいけない。結果的にはその時のメモが「トヨタ・GM 巨人たちの握手」を執筆するのに役に立ちました。
水面下の交渉が始まり段取りもかなり整ったので、多分これは間違いなく実現するなと思いました。12月に入ってから当時のデスクと部長と編集局長に知らせて、あとは誰にも知らせずに、僕はそれだけに専念していました。そうなってくると工販合併のことなどどうでも良くなってきた。案の定、12月30日に朝日新聞に一面トップで堂々と抜かれてしまった。その日は夕刊がないので、日経は次の日の大晦日の朝刊で後追いしたわけです。
ただ、その時に僕が「しまった」ではなくて、「しめた」と思ったのは、そのニュースに対するトヨタの反応は「まだ何も決まっていません」という例の調子だった。実際、水面下で交渉をやっていたのは事実ですし、これで時間稼ぎができると思ったわけです。新聞記者がみんな自工の合併で大騒ぎしている時、GMから交渉団が秘密裏に来日して車種を何にするかなどを話し合っていました。工販合併は1月 25日に正式発表になりましたが、その時もずっと裏で交渉をやっていたわけです。トヨタの対米進出に世間の目が向いたのは、2月に入ってのことです。
GMと交渉していることを知っていたのは、たかだか数名です。自工でいえば社長の豊田英二さんと会長の花井さん、あと通訳をしている柳沢さん、そのぐらいです。自販の方は社長の豊田章一郎さんと会長の山本さん、それに常務の神尾さんです。
だから他に漏れる心配はないないはず。しかし、ないと思っても念のためということで、ちょっとお喋り癖のある加藤さんの自宅(田園調布)に、何も事情を知らせていない若い記者を毎晩行かせました。当然ライバル紙も来ていて、2月の中旬ぐらいになると「そろそろアメリカはどうですか?」とみんな聞くわけです。
そうしたら加藤さんが「真剣に考えており、そろそろ結論を出さなければならない」ということを言ったらしい。朝日と読売は翌日の一面トップで「トヨタ単独で進出」と書いた。うちの若い記者も勇んで帰ってきたけど、日経は「何月何日の夜に加藤さんがこう言った」と、2段か3段で誤魔化した記事を載せただけでした。
 トップ会談の日程も決まりました。しかし、その時はすでに豊田英二さんの行動は見張られているので、聞かれたら言わなければならないし、僕は考えた末、その昔、住友銀行の巽さんがフォードとの交渉で使った手を教えた。というのは、巽さんは米西海岸の金融視察と称して記者を伴って訪米した。サンフランシスコとロサンゼルスの間には2日間開いており、巽さんは「寒いのでフロリダに行ってゴルフでもやってくる」と同行記者を煙にまいて、デトロイトに行き東洋工業との資本提携交渉をまとめ、何食わぬ顔でロサンゼルスに戻ってきた。
それを参考にトヨタはカナダでトヨタのディーラー大会をやることにして、英二さんにはニューヨーク経由で行ってもらったわけです。トヨタとGMの提携は、ニューヨークで英二さんとGM会長のロジャー・スミスさんが会い、ここで事実上まとまりました。
事前に利害調整は相当していたのですが、それでも具体的な交渉ではすったもんだあり、最後には金銭面で暗礁に乗り上げてしまった。事務局の方は「もうこれは白紙にしましょう」言い出したのですが、その時に英二さんが言ったのは「会長には拒否権がある。交渉は粘り強くやらなくてはならない」ということ。そして再び交渉のテーブルについて、結果的に歩み寄ってまとまったのです。

僕がそれをやったのは、37歳の時です。その後、現場を離れてデスクや編集委員をやったり、日経ビジネスの副編集長をやったりしていました。その間も、自分でいうのも変ですけれども、ほとんどお助けマンみたいなことをやっていました。
お助けマンというのは、相手から頼まれてアドバイスをしたり、話をつないだりすることで、花井さんから頼まれて「豊田英二さんをどうしても経団連の副会長にしたいけれども、どうにかならないか」ということで、当時の経団連の花村仁八郎事務総長に相談してまとめたり、いすゞと富士重工がアメリカに共同で工場を建設する話とか、タイム・ワーナーに東芝と伊藤忠が1千億円出資する話とかに関わりました。
もちろん、うまくいった話ばかりではなく、うまくいかなかったものもあります。興銀の副頭取から頼まれたソフトバンクとアスキーの合併話。コスモ石油と三菱石油の合併話は、中山素平さんが「佐藤君、合併後の新会社は金曜会に入るんだろう?興銀の融資先が金曜会に入るのは駄目だよ」と言って首を縦に振らず、陽の目を見なかった。アメリカでの共同生産を土台にいすゞと富士重工が経営統合する話なんかも、やはり興銀に反対されてダメになりました。
さて、そろそろ時間なので、これだけは言っておきたいと思います。それは「ジャーナリストとノンフィクション作家の違いは何だろうか?」ということです。僕はジャーナリストを卒業してノンフィクション作家だと思っています。新聞記者の仕事はニュースを掘り起こすことです。ノンフィクション作家は事実を元に書く作家です。その際、見立てやストーリーが重要になります。見立てを間違えば、とんでもない間違いを起こってしまいます。
 また、ノンフィクション作品というのは実名を出して書きますから、ちょっとでも間違えたら名誉棄損になってしまう。それを避けるには、知らないことは書かないこと、取材してわかったことしか書かないということです。私はそういう主義で来ましたから、これまで問題を起こさずに来れたのかなと思っています。
少し PRになりますけど、今回出版した「日産その栄光と屈辱」という本は、いろいろな反響がありました。多くは「日産の凋落には、こんなに面白いドラマがあったのか」というもので、「日産のトップのエゴはそこまでひどかったのか」、「巷間言われている話とまったく違っていた」、「これまでの経営者は善、組合は悪という筋立てを信じていたが、180度違っていたのには驚かされた」、さらには数年前に交通事故で亡くなったデイヴィッド・ハルバースタムさんの「ベスト・アンド・ブライテストの企業版だ」と言ってくれた人もいました。
 ハルバースタムさんの代表作のひとつと言われているは作品に、日産とフォードを対峙させた「覇者の驕り」がありますが、僕はあの本の見立ては間違っていると思うのです。どういうことかというと、日産の経営が正しかったのか、間違っていたかの、その結論が出る前に書いちゃったから、どうしても経営側寄りになってしまった。今書いたら、もっと別のストーリーになったんじゃないかと思います。そういう意味で、自分で言うのもなんですけれども、今回の本には、僕の40年の歴史がちりばめられています。

最後に、経営者というのは孤独なものです。石原さんも、ある意味では孤独だったのです。石原さんは、手柄を自分ひとりのものにしたいために、あえて孤独を選んだのでしょう。
内資企業としての日産の最後の社長になった塙(はなわ)義一さんは、石原さんに優秀な人材を全部飛ばしてしまったため、周りに誰も優秀な人がいなくなってしまった。社内には相談する相手もいなかった。メーンバンクの興銀からも見放されて「どうしよう、どうしよう」と言うので、結果的に僕が昔から知っていたので相談相手になったのです。この本にも書いてありますけど、私は土壇場で「ルノーと提携すべきだ」と進言しました。
塙さんは他社との提携にこだわっていましたが、最終的にパリに飛びました。最後まで迷っていましたが、成田へ帰ってきた時に塙さんから電話を受けた時、「フランスのワインの味はいかがでしたか?料理も美味しかったでしょう」と尋ねたら、「佐藤さん、ワインどころか、コーヒーとサンドイッチだけ食べて帰って来たよ」問い答えが返って来た。その一言で会談は成功したなと思いました。
その電話の最後に、僕は塙さんに、「もうこれから会う機会もないでしょう」と言いました。あれから13年になりますが年賀状の交換だけで、一回も会っていません。パーティーで会っても、遠くから軽く会釈するだけです。
日産は 8千億円で外資に身売りし、カルロス・ゴーンさんはそれを 5年間で回収した。
 つくづく、「経営者の責任は大きい」と思います。どんな名門企業でも、ちょっと選択を間違えれば第二第三の日産になってしまう。これが私の結論です。
 今日はありがとうございました。

東京プレスクラブの記事一覧をみる ▶

記者:

東京プレスクラブについて: 「オープン&シェア」を合言葉に、現在話題となっている出来事の取材やネットでのオープンな資料・素材公開をおこなっているブログメディアです。特定の記者やジャーナリストだけではなく「新しいテクノロジーを使って誰でも参加できる情報共有の場をつくる」ことを目標に、共有すべき資料は迅速に共有し拡散することで皆さんのお役に立つことを目指しています。 東京プレスクラブに掲載された情報は転載・引用・転送・共有・拡散、すべて自由です。もちろん、ブログ、ニュースサイト、新聞、雑誌、テレビ、ラジオ等々のメディアでの利用も自由です。

ウェブサイト: http://tokyopressclub.com

  • 誤字を発見した方はこちらからご連絡ください。
  • ガジェット通信編集部への情報提供はこちらから
  • 記事内の筆者見解は明示のない限りガジェット通信を代表するものではありません。