体験を伝える―『ガジェット通信』の考え方

面白いものを探しにいこう 本物を体験し体感しよう 会いたい人に会いに行こう 見たことのないものを見に行こう そしてそれをやわらかくみんなに伝えよう [→ガジェ通についてもっと詳しく] [→ガジェット通信フロアについて]

西洋マジックではありえない、“日本古来の手品”だけにある風格とは?<後編>

 古来から、主に口伝で伝承されてきた奇術“手妻”をご存知でしょうか。今の言葉で言うところの手品やマジックにあたるものですが、手妻は現代のそれとは比べ物にならないくらい大掛かりな仕掛けと華麗な振舞いで演出され、1997年5月24日には文化庁長官により「記録作成などの措置を構ずべき無形文化財」として選択無形文化財にも登録されました。
 今回、本の情報を扱うインターネット番組「新刊ラジオ第2部」では、手妻の数少ない継承者で、『天一一代―明治のスーパーマジシャン』(NTT出版/刊)で手妻の伝統を書きつらねた藤山新太郎さんにインタビューを行いました。本記事では、その後半をお送りします(前半はこちらから)。

 ◇   ◇   ◇

―“手妻”の発展に大きな功績を残した松旭斎天一(しょうきょくさい・てんいち)という人物について、ご著書に書かれていますが、天一とはどのような人物だったのでしょうか。

藤山「今となっては、過去に売れた芸人さんですから知っている人は非常に少ないと思うんですが、明治時代の始めから終わりまでの四十四年間は、日本で松旭斎天一という芸人を知らなかった人は一人もいなかった程だそうですよ。天一さんは、西洋奇術をとにかく早くから覚えて、まずそれで名を成した人なんです。

明治時代に入ると、大きな劇場がどこの町にもできるようになりましたが、当時、マジックが劇場に上がることはとても難しかったんです。舞台に上がるということは、一日4時間の興行で一週間は打つことになりますから、それだけ人が集らないことには興行は務まりません。それを天一さんは、歌舞伎座での興行や、天覧興行(天皇の前での講演)、また、井上馨、西郷従道、伊藤博文、李鴻章など、著名人に呼ばれたりもしていましたから、それはもうすごい人気を博していました」

―多くの西洋奇術師がいる中で、なぜ天一の芸はそれほどまでに高い評価を受けたのでしょうか。

藤山「当時、西洋奇術を取り入れていた奇術師たちは、どのように演じていいかわからなくて、今までの流れに沿って適当にやっていたんですよ。言うならば、手妻のスタイルで西洋奇術をやっているにすぎなかったんですが、それを天一さんは完全に西洋風に仕立て上げたんです。燕尾服やフロックコートをこしらえて舞台で着たり、西洋奇術で使われる大道具仕入れてきたり、楽隊を用意してトランペットやアコーディオンを演奏したり、当時としては誰もやっていないようなことを見せたんです。

また、もともと天一さんは芝居心のある人でしたから、奇術をいくつか集めてストーリー性のある芸にしていったわけですね。劇場で4時間も興行を打つということになると、花を出したり、鳩を出したりする単発の奇術では人を惹き続けることはできません。ですから、ストーリーを持たせながら話を膨らませていく興行を作っていったんですね。それで大変に人気が上がっていったわけなんです」

―松旭斎天一の芸人としてのルーツはどこにあるのでしょうか。

藤山「天一さんは福井の侍の家に生まれましたが、幼いうちに家が断絶して、追われるように家を出てからは本当に貧乏したんだと思いますよ。その後、父親の末弟がやっている寺でやっかいになるんですが、これは大変だったらしいですね。

天一一家を引き受けることになりましたから、そもそも貧しかった寺が一層貧しくなってしまい、食べ物にも事欠く毎日だったらしいですね。ところが、天一は感謝するどころか悪戯三昧で、お寺の屋根に上っては天照大神のお札を撒いたりしたんですよ。村の人は天から札が降ってきたと思って、“それー! ええじゃないか、ええじゃないか”といって、村中でええじゃないか踊りが起こる始末だったらしいです。そのうちに首謀者探しが始まると、すぐに天一が捕まってひどく怒られたらしいですよ。

その後あまりに悪戯がすぎるということで、寺からは勘当されてしまうんですね。天一は旅一座に入って、そこで覚えたのが“刀の刃渡り”でした。天一は人の聞き伝えで、“刀の刃は真上から載ると切れない”ということを耳にして、旅館にあった刀を借りて試しに乗ってみたそうです。すると噂どおり切れなかったもので、さっそく昼のうちに町に出て、刀を二十本ほど買い込んできたんです。そして、梯子の段のところに刀を並べて、そこを段々に上がっていくという芸を、その日のうちにやってみるんです。その日の夜には、もう客呼んで、いきなりお金を取ったそうですね。

四国の田舎町ですから、客は“刃渡りの師匠だ”とびっくりして、天一は、一躍刃渡りの師匠という扱いですよ。しかも、刃渡りだけじゃ寂しいからといって、手品師集めて、一座をこしらえて四国を回り始めたんです。いきなり太夫ですね。これがまだ十代の頃の話です」

1 2次のページ
エンタメ
  • 誤字を発見した方はこちらからご連絡ください。
  • ガジェット通信編集部への情報提供はこちらから
  • 記事内の筆者見解は明示のない限りガジェット通信を代表するものではありません。
GetNews girl / GetNews boy

オスカー2018年晴れ着撮影会