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『千日の瑠璃』191日目——私はぬかるみだ。(丸山健二小説連載)

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私はぬかるみだ。

春の嵐がまほろ町の郊外に残していった、道行く者を困らせて陰で盗み笑いをする、ぬかるみだ。すでに空には一片の雲もなく、日が燦々と照っており、私はいずれ消えてしまう運命にあった。人も犬も皆、私を避けて通った。泣き落としの巧いセールスマンも、長年苦役に従っているお人好しの婿養子も、鯨飲してもびくともしない大男も、振り切っても追い縋る暗い過去を持つ女も、この世をあの世に準える楽天家も、各地を経巡り歩いても何ら変らない物乞いも、直前で私を避けた。

ところが、そうしない娘がひとりいた。療病のために湖畔の別荘で独り暮らしをしている彼女だけは、ためらいもしないで、私の方へまっしぐらに突っこんできたのだ。完治までにはほど遠くても、少しずつ快方へ向いつつあった心の病は、私が彼女の足を掬った一瞬のうちに元へ戻ってしまった。全身泥にまみれた彼女はどうにか起きあがりかけたものの、鼻血に気づくといっぺんに逆上し、何を考えたのか今度は自分から私に体を投げ出し、ごろごろところげ回り、のたうち回った。そして泥の色に染まった歯をむき出して狂人にふさわしい表情を作り、私をプールにでも見立てたのか、泳ぎ始めた。人々は見ないふりをして通り過ぎて行った。あの少年世一ですら、解せない顔をして素早く立ち去ったのだ。町内を巡視していたパトカーによって私はようやく彼女から解放されたが、狂気は残った。
(4・9・日)

丸山健二×ガジェット通信

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