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『千日の瑠璃』170日目——私は炭だ。(丸山健二小説連載)

 

私は炭だ。

窯から出されて灰を掛けられ、そのあとまる一日冷まされて完成した、上質の炭だ。私を丁寧に扱って俵に詰めこむ骨太の女は、私の粉を全身に浴びて、耳の穴まで真っ黒に染まっている。しかし、次に焼く硬い木を窯へ運びこんでいる、頑固一点張りの夫のほうはもっと黒く、さながら動く闇だ。日夜酒色に耽り、財産も粗方使い果たしたこの男と、献身的に過ぎる彼の妻、ふたりの暮らしを支えることができるのは、今や私だけだ。

そこへ、禅寺で修行に励む若い僧が、私を引き取るためにやってくる。彼が纏っている黒い衣は、明らかに私のことを蔑んでいる。同じ黒でもおまえとは格が違うといわんばかりで、鼻持ちならない。私をリヤカーに積みこむ僧は、天を摩するうつせみ山を見あげて長嘆し、それから、うたかた湖の向うに広がる町並みへ熱い視線を投げる。

そして僧は帰りの道を間違える。寺の方ではなく、町の方へ下って行こうとする。気づいた彼は慌ててリヤカーの向きを変える。すると炭焼きの夫婦は、窯のなかへ駆けこんでげらげら笑い、「黒い物を着て坊主になれるんならおれたちだってとうに坊主だよな」と言い、更に笑う。その笑声は分厚い窯の壁に妨げられて、僧の耳には届かない。けれども、山道で僧とすれ違った青尽くめの少年には聞えたようだ。少年はオオルリのさえずりをやめて、今度は下卑た笑声をそっくりに真似る。
(3・19・日)

丸山健二×ガジェット通信

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