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『千日の瑠璃』155日目——私は髪だ。(丸山健二小説連載)

 

私は髪だ。

実に無造作に束ねられているだけで、彼女の内面を端的に表わす髪だ。少しぱさついて、少し白いものが交じっており、さほど手入れが行き届いているわけではないが、それでも私は山間をうねる小川のようにしなやかに流れる。私は、彼女のすっと気持ちよく伸びた華奪な首にも、逃げ水のように儚いうなじにもよく似合っており、また、ざっくりした風合いのセーターにも調和している。

辺幅を飾らない、他人の美点を学ぶことを知っている彼女を、私としては長年支えてきたつもりだ。彼女には生涯の転機と呼べることは何もなかった。彼女の四十三年は、若過ぎた結婚や、内省的な気質の夫の夭折といった悲劇をも呑みこんで、さらさらと流れ、思い返して万感胸に迫ることもない。

彼女はきょう、十二歳のときの彼女と寸分変らぬ気持ちで、輝ける湖畔にひとり佇んだ。彼女に降り注ぐ陽光の大半を私が吸収し、残生をこれまでのように静かな気持ちで生きてゆける力に変えて、蓄えた。すると、餌を与えたわけでも呼んだわけでもないのに、白鳥が彼女の方へ集まってきた。ついで、健康な母親と不健康な息子のふたり連れが、彼女のすぐ後ろで足をとめた。母親はうっとりと私を眺めた。息子は病気のせいで震えのとまらない手を私の方へ伸ばしてきた。その手を母親がぴしゃっと叩いて引っこめさせた。それから母と子は、丘の家へと帰って行った。
(3・4・土)

丸山健二×ガジェット通信

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