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『千日の瑠璃』142日目——私はサンドバッグだ。(丸山健二小説連載)

 

私はサンドバッグだ。

注文を受けてから一カ月も経ってまほろ町の客に届けられた、本式のサンドバッグだ。まだ体ができていない少年は、早速私を車庫の天井に吊るし、グラブもつけずに、素手でいきなり殴りかかってきた。私はがっかりした。彼は握りこぶしの作り方も知らないずぶの素人で、おまけにその精神たるや、スポーツなどとはおよそ縁のない腐り切った代物だった。これといった目的も無しに高校を中退するような奴の考えつきそうなことだった。

貧弱な拳はみるみる皮が剥け、血が穆んだ。それでも彼は狂ったように私を叩きつづけ、しまいには手首を両方とも挫いてしまった。ところが、彼はその傷みを誤って解釈した。もしかすると落ちこぼれたのではないかという負い目や、いつしか知らず親に見限られた衝撃を、私をとことん殴ることで追い払えるかもしれない、とそう考えた。小心翼々として怠惰に流れる父親と、ふしだらな日々を送る母親と別れて暮らせるだけの力が身につくかもしれない、とそう思い違いをしたのだ。

そんなところへ通りかかった者こそいい迷惑だった。とんだ災難だった。厄介な病気のせいで真っすぐに歩くこともできない少年を一発で殴り倒した彼は、ふたたび車庫へ戻って私にひしと抱きつき、「見たか、今の?」と叫んだ。「見たか、今のが本当のおれだぞ」と言った。被害者の少年はまもなく起きあがり、何事もなかったように、また歩き出した。
(2・19・日)

丸山健二×ガジェット通信

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