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『千日の瑠璃』94日目——私は酒だ。(丸山健二小説連載)

 

私は酒だ。

正月だということで、誰にも気兼ねなく朝っぱらから堂々と呑める、いくらか上等な酒だ。きのうからずっと私だけを相手にしてきた世一の父は、炬燵でうたたねしている今も酔っていた。そして彼は、突然得体の知れぬ虚しさに叩き起こされた。充血した眼を開けた彼が、まず真っ先に思い出したのは、やはり私のことだった。見るからにしまりのない彼の酔顔は、テレビに向けられることはあっても、家族に向けられることはなかった。殊に世一が傍を通るときにはほとんど反射的にそっぽを向き、その間に眼にもとまらね早さで、ぐっと一杯ひっかけるのだった。

世一の母は餅を焼き、世一の姉は焼きあがった餅を細かく千切って世一の喉を通り易くしてやり、世一はその餅をせっせと口へ放りこんでいた。成鳥となってさえずりのこつを体得したオオルリは、二階の部屋からまほろ町へ向けて、《怖じることはない》という歌を放っていた。やがて父親は妻や娘の眼を盗んで、息子の口へ杯を運んだ。だが私は、世一に何の変化も与えられなかった。少なくとも父親が期待したような奇跡は起きなかった。すると父親は、「どうせおまえは生まれたときから酔っぱらっているようなもんだ」と言った。それから彼は急に家を出たかと思うと、決まり切った方へ落ちてゆく白い太陽に向って、どっと吐いた。私や鮮血が染めた雪に興がわいた世一は、まるめて崖の下へ投げた。
(1・2・月)

丸山健二×ガジェット通信

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