『千日の瑠璃』85日目——私は口実だ。(丸山健二小説連載)

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私は口実だ。

一度も言葉を交したことがない男に近づこうとして、世一の姉がさんざん知恵を絞った挙句にようやく思いついた口実だ。意を決した彼女は、溶接の火花に身も心も委ねている男に、後ろから声を掛けた。しかし、噴き出す炎の音と、高がストーブを作るにしては深過ぎる集中に妨げられて、相手の耳に届かなかった。もはや引き下がることなど思いも寄らぬ彼女は、垣根の隙間から庭へと入りこみ、もう一度大きな声で「こんばんはあ!」と言った。それでもまだ気づいてくれなかったので、今度はぽんと肩を叩いた。

男はようやく仕事の手をとめた。だが、振り向こうとはしなかった。いよいよ私の出番がきた。彼女は震え声で、ストーブをひとつ作ってもらいたい、と言った。男は返事をせず、わざわざ訪ねてくれた客を見ようともしなかった。弱められて赤い色に変った炎が、長い沈黙を照らしていた。やがて世一の姉は私のことを恥じ、私を考えついた自分を恥じた。これを契機に親交を深められるような、そんな簡単な相手ではなさそうだった。気を取り直した彼女は、「いつでもかまわないんです」と言い、男の正面へ回って名乗ろうとした。すると男は、「わかった」とひと言呟き、一気に酸素の量を増やして炎の色を青に変え、ふたたび火花が織り成す世界へと没入した。私のことを礼讃しながら帰って行く世一の姉は、幾度も幾度も振り返った。
(12・24・土)

丸山健二×ガジェット通信

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