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【日曜版】新たに聞く~日本の新聞の歴史~【第9回 マスメディアへの成長】

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日清・日露戦争を経て新聞がマスメディアとして成立するようになると、新聞も“ベンチャー”を卒業して、新聞社としての社内体制を整えていきました。また、ラジオ放送が始まって近代的なメディア状況も生まれ、新聞の紙面スタイルもほぼ現在と同じものに確立していきました。

メディアとしての新聞の地位が確立
大正時代に入ると、新聞社の編集体制は政治部、社会部などに分かれて組織化され、取材方法も確立されていきました。社内のシステムができあがるにつれ、取材の現場も海外へ記者を派遣して国際報道が行われたり、スクープ合戦が行われるなど、記事の幅もひろがりました。

また、学校教育を受けた者が自ら取材を行い記事を書くようになり、かつてのように町の噂を集めてくる探訪員に頼ることがなくなったため、社会面の質も向上しました。大正11年(1922)には、アメリカの新聞社にならって、大阪・東京の両朝日新聞社が日本初の記事審査部を設置。誤報による取材対象者のクレーム対応に着手しています。

新聞の種類も多くなり、その社会的影響が大きくなっていくと、世論を形成する影響力を政府に警戒されると同時に、政治を変える力を持つ言論の力に読者からの期待も集まりました。憲法を無視して成立した内閣への批判が世論を動かした「大正政変」では、政府を擁護する新聞が民衆の襲撃にあうという事件も起きるなどし、世論の力に押された内閣を倒すまでに至っています。新聞は政治と世の中の間をつなぐ場として、政府・国民双方から注目を集める言論機関に成長していったことがうかがえます。

また、大正14年(1925)にはラジオ放送が始まりました。聴取者数が増えてくると、まず『読売新聞』が紙面にラジオ欄を創設。その後を追って、他紙もまたラジオ欄を掲載するようになりました。後にラジオが独自に取材を行うようになると、新聞とラジオは速報を競い合うようになりましたが、当初はは地元の新聞や通信社がラジオに記事を無償で提供するなど、新聞とラジオは協力関係にあったようです。

関東大震災が新聞に与えた影響
大正12年(1923)に起きた関東大震災では、都内では『東京日日新聞』『報知新聞』『都新聞』をのぞくすべての新聞社の社屋が倒壊、あるいは火災で類焼したため、都内の通信情報が断絶してしまいました。新聞が機能しない状況のなかで噂が飛び交った結果、民間の自警団などが朝鮮人を数千人虐殺するという事態が起き、さらに混乱に乗じて、警察や憲兵たちは社会主義者、労働組合員の一掃をもくろみ、彼らを逮捕・殺害するという事件も起きました。

このときに被災して社屋を失った東京の新聞社に対し、大阪に拠点を持つ『東京日日新聞』『東京朝日新聞』は、資金と人材を投入していちはやく立て直しをはかり、すばやく新聞の発行・販売を再開しました。これによって、大阪系の新聞は優位に立ち、翌年には『大阪毎日新聞』『大阪朝日新聞』が、100万部を達成して全国紙としての体制を整えることになりました。

『読売新聞』はスポーツ欄、婦人欄、娯楽欄など多様な情報を展開する紙面づくりで読者をひきつけ、またプロ野球や囲碁、将棋、展覧会などの事業を企画するなどし、新聞の商品価値を高めることで大阪系二紙に並ぶ全国紙として成長をとげています。このような『読売新聞』の紙面づくりは、現在の新聞紙面モデルの原型になったものとされています。現在の朝日・毎日・読売の三大紙体制の基礎は、関東大震災によって確立されたものとも言えるでしょう。

近代以降の都市生活では、正しい情報を伝達するメディアが不可欠になり、新聞の役割はますます重要になっていきます。また、人々の暮らしに合わせて紙面の作られ方も工夫され、ほぼ現代と同じスタイルに完成されたのもこの頃のことでした。
 
 

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記者:

京都在住の編集・ライター。ガジェット通信では、GoogleとSNS、新製品などを担当していましたが、今は「書店・ブックカフェが選ぶ一冊」京都編を取材執筆中。

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