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フィンランドから異次元へ向かう4人〜尾﨑英子『くらげホテル』

フィンランドから異次元へ向かう4人〜尾﨑英子『くらげホテル』

 「ここではないどこかへ行きたい」という思いは、切羽詰まったケースからとりたてて切実でないものまで、我々の心にしばしばわき起こりがちだ。しかし、移動する先が「異次元」となれば、いろいろと話は違ってくる。

 本書は4人の登場人物たちの視点で語られていく。少し前まで雇っていた占い師との間をその夫に疑われてもみ合いになったところ、相手を死なせてしまったのではとパニック状態になり逃亡を図った占い喫茶オーナー・矢野多聞。大好きだった祖母の「他人に感謝される人間になりなさい」という言葉を胸に生きてきたのに周囲となじむことができず、思い立って参加してみた救命講習でも足手まといになり完全に自信を失った梅林希羅々。幼少期から万事スローペースで会社でもうまくやれないながら最愛の妻に出会うことができ、しかし彼女に先立たれたため「異次元」で再会できることを切望している燕洋一。似たような価値観を持つ夫と結婚して息子にも恵まれたが、小5のときに出会った未来から来たという他の星の生物の記憶が蘇り、その生物が語った違う次元の場所に行ってみたいと思う久遠典江。彼らは「異次元」「フィンランド」「ホテル・メデューサ」というキーワードに導かれるように、森の奥に建つホテルへと集まってきた。

「北欧といえばおしゃれ」という概念は、すっかり定着してきた感がある。なんなら「おしゃれといえば北欧」でもかまわないくらいだ。しかしそういったテイストを期待して読み始めると、若干肩すかしを食らうかもしれない。「ホテル・メデューサ」に集まった4人は、「おしゃれ」というか少なくともファッショナブルなイメージとは少々異なる人々であるからだ。その日その日を生きていたら、なぜかここに集まってきた人たち、みたいな。ちなみに「メデューサ」とは「くらげ」を表すのだそうだ。髪の毛がヘビであることで有名なギリシア神話の怪物と同じ。これまたおしゃれ感とはまた違ったテイストのような…(「赤茶色の壁に白い窓枠に三角屋根」の建物や「北欧らしいシンプルなテキスタイルでまとめられた」部屋は、素敵だろうなと思うが)。

 4人が揃った最初の晩、夕食のテーブルで話し合った彼らは、それぞれに「異次元」に行くことを念頭に置いていることを確認し合う。さまざまな事情、さまざまな思惑があって、はるばるフィンランドまでやって来た4人。とはいえ、各人の思い入れには温度差がある。”ほんとうに「異次元」などというものがあるのか、また、存在するとしても何が何でも行ってみたいとまでは思い切れない”多聞のような者もいれば、”とにかく亡き妻に会いたい、再び会うためなら「異次元」でもどこへでも行く”という燕のような者もいる。改めて自分の心と向き合う彼らが、どのような選択をするに至るのかが読みどころ。

 ”果たしてほんとうに「異次元」は存在するのか?”ということもさることながら、本書を読んでいるとやはり思い浮かぶのは、”「異次元」の世界に行けるとしたら自分は行くだろうか?”という疑問ではないだろうか。私は行かないですよ。知らない世界を見てみたいという気持ちはないことはない。しかし典江のように、”家族のことは気がかりだけど、もし「異次元」に行けるのならば行ってみたい”とまでは思い切れない。うちの息子たちももはやいちばん下が高校生で母親がいなければ何もできないという年齢ではなくなったけれど、きっと彼らが社会人になったり結婚したりということになって今よりさらに手が離れたとしても、やっぱり私は「異次元」に行くという選択をすることはないだろう。

 でも、この地球上に「異次元」とつながった場所があるかもしれないという考えには、わくわくさせられる。そしてそれが北欧の森の中にあるのだったら、さらにいい。都会はごみごみしていて殺伐とした空気、地方は自然に恵まれていて癒やされる雰囲気、といったような単純な分け方をしようとは思っていないが、やはり木に囲まれた空間には心を落ち着かせる効果があるとは感じる。いつか「ホテル・メデューサ」が建っていそうな森の中を歩いてみたい。たとえ「異次元」に行くことはなくても、せわしない日常に戻ってからまたひとがんばりしてみようと思えそうだから。多聞たちもこの森を出発して、各々が選択した道を納得して進んでいくことだろう。

 著者の尾﨑英子さんは、『小さいおじさん』で第15回ボイルドエッグズ新人賞を受賞(後に『私たちの願いは、いつも。』に改題)。ボイルドエッグズのサイトでは、月替わりのお題について受賞作家のみなさんが競作エッセイをアップされているのだが、今月の尾﨑さんのエッセイは「イマジナリーフレンドと『くらげホテル』」。タイトル通り、本書について紙幅が割かれている。尾﨑さんの「異次元」観(ならびに息子さんたちのベリーキュートさ)が楽しめますので、本書とあわせてどうぞ。

(松井ゆかり)

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