体験を伝える―『ガジェット通信』の考え方

面白いものを探しにいこう 本物を体験し体感しよう 会いたい人に会いに行こう 見たことのないものを見に行こう そしてそれをやわらかくみんなに伝えよう [→ガジェ通についてもっと詳しく] [→ガジェット通信フロアについて]

認知症介護小説『その人の世界』Vol.35 プロフェッショナルの証

「始まった」

毎日のことだから分かっているはずなのに、つい呟いてしまう。介護職員として悩ましい時間の訪れ。クミは肩を持ち上げて深く息を吸い込んだ。

回廊式の廊下でうずくまっている頭が中庭を挟んだ窓から見える。
キヨシさんだ。
薄暗い時間になると始まる儀式は、以前は早朝だったが近頃は夕方が多くなっていた。

「ああ……」
見てみると、今日は特に厄介なことになっている。廊下が水びたしだ。
「キヨシさん」
頭の上から声をかける。反応しないと分かっていてもとりあえず呼んでしまう。キヨシさんは脇目もふらず床をこすっていた。手にはくたくたのペーパータオル。足はいつものことながら裸足で、その隣に紙コップが置かれている。
「あれだ……」
呟いたクミの視線は紙コップでピントが合った。普段と違うのがそれであるとすぐに分かり、床が濡れていることとつながる。一体どこから持ってきたのだろう。こうなるから隠してあったはずなのに。
「勘弁してよね……」
まずは紙コップを『回収』する。水はほとんど入っていない。浴室からモップを持ってきて素早く拭き上げる。誰もすべって転ばなくて良かった。この儀式のおかげで転んだ入居者が2人いる。

クミはキヨシさんのことが嫌いではない。キヨシさんは穏やかで、几帳面だ。食事はいつもこぼさず食べ、食べ終わると食器を丁寧に重ねてから両手を合わせる。何かを断る時も「いいよ、いいよ」と言うように手をゆっくりと左右に振る。ただ、話をしてくれないので何を考えているのかが分からず、首をかしげてしまうことがあるのはクミだけではなかった。

キヨシさんの儀式の厄介なところは、それが夕方であること、そして一度始まると頑としてどいてくれないことだった。これから夕食で入居者をフロアーに誘導するという時間帯では、介護職員にとっては迷惑行為でしかない。つい「どいて」などと言って立ち上がらせようとすれば、キヨシさんはたちまち眉をつり上げて肘鉄をくらわせてくる。
「あれ、ほんと困るよね」
「どうしたらやめてくれるかね」
そんなやり取りを日常的にクミは耳にする。分かる。すごくよく分かる。クミだって思わず舌打ちしたくなるのだから。

「あの人さ、ああやってるけど、昔は何をしていた人なの?」
たずねてきたのは先週からの新しい入居者だった。
「昔?」
そういえば知らない、とクミは思った。キヨシさんのファイルを開く。書いてあるのは生年月日、既往歴、飲んでいる薬、家族の名前……。
「あった」
生活歴の欄に、「運送業」と書かれていた。

「どうやら、昔の仕事とは関係ないみたいです」
翌日、クミは新しい入居者に回答した。相手が「何の話?」と眉をひそめる。昨日の記憶はもうないようだった。
「えっと……床を磨く仕事って、どんな仕事がありますかね」
クミがたずねたのと同時に、入居者の隣に座ったのは相談員だった。新しい入居者のことはたまに様子を見に来るのだ。
「何の話してるの?」
そう言って見上げた相談員にクミはたずねた。
「キヨシさんの昔の仕事のことです。運送業って、床を磨いたりしないですよね」
「そうねぇ……。そういえば、確かキヨシさん、若い頃は船乗りだったのよね」
「船乗り?」
「うん。そう聞いたことがあるよ。貨物船の甲板員だったって」
「甲板員……」
廊下の床で窓枠の影がゆっくりと伸び始めた。真冬の陽が落ちようとしている。

さて、やるぞ、とキヨシさんは胸の内で呟いた。ズボンの裾をまくってしゃがむ。
タンツーは日本の船乗りの伝統だ。タンツーと言っても素人には分からないだろう。甲板磨きのことだ。甲板に海水と砂をかけ、半分に割ったヤシの実で磨く。磨く時は裸足だ。早朝の薄暗いうちから始め、朝食までに終わらせる。
手に持った厚紙から水がしたたる。ひたひたに濡らしてあるのだ。水を運べる道具が見つからず、紙を少しずつ絞りながら磨くという方法をキヨシさんは考えた。ヤシの実もどこにあるのか分からず、代わりに紙を束で持ってくる。紙だけはどこにでも置いてあるので、遠慮なく使っていた。

キヨシさんはセーラー(甲板員)だから、乗組員の中でも下っ端だ。本当は誰か手伝ってくれると有難いが、つべこべ言っていられない。海外に渡る大型貨物船ならともなく、国内だけの中型船なのだ。ほぼ全ての雑用をキヨシさんがこなす。少しでも口ごたえすれば、顎で使う先輩たちからの報復が待っている。

両腕に体重をかけながら、ごしごしとこする。3日に一度は磨かないと甲板のチーク材が乾いてしまう。キヨシさんは厳格な父親に育てられ、人様に迷惑をかけないようにと教え込まれてきた。真面目すぎるほど真面目だったし、責任感も強かった。
よし、今日も終わった、とキヨシさんは立ち上がった。

1 2次のページ
認知症ONLINEの記事一覧をみる
  • 誤字を発見した方はこちらからご連絡ください。
  • ガジェット通信編集部への情報提供はこちらから
  • 記事内の筆者見解は明示のない限りガジェット通信を代表するものではありません。
GetNews girl / GetNews boy

オスカー2018年晴れ着撮影会