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認知症介護小説『その人の世界』Vol.32 行くわけないだろう

「行くわけないだろう」と僕は言った。

「そんなぁ、ぜひにと思ったのに」
新しい若造の秘書が嘆くような声を出し、寝巻姿の僕は新聞を広げた。
「話は終わりだ」
「はい……」
僕の前で膝をついていた若造は静かに立ち上がり、部屋を出ていった。

「解散か……」
新聞の一面は国会に関する文字が踊っていた。

僕は市議会議員だ。生まれ育った街を住みやすくしたいという思いは子どもの頃からあり、その一点に注いだ人生だったと言っても良い。

鼻水をたらした坊主頭の僕が街づくりを意識したのは、移住した土地の開墾を手伝った時だった。当時、このあたりは広大な原野で、背丈を遥かに越える草木の中で迷子になることもしばしばだった。配給のイモで食いつなぎながら、父親と友人たちは休む間もなく土まみれになった。

長男だった僕も、草木を束ねたり運んだりと忙しく働いた。どちらかと言うと無口で気難しい父親だったが、僕には優しかった。僕は日焼けした父の逞しい腕と、仲間への気遣い、何より仕事への実直さが大好きだった。

「おまえは将来、何になりたい」
仕事の帰り、川べりでとんぼが飛び交っていたのを憶えている。僕は隣を歩く父を見上げた。
「お父さんみたいな人になりたい」
大して考えていないように聞こえたのか、父は夕日に聴かせるように「はは」と笑った。
「そうか。それは頼もしいな」
父は小石を選んで拾い、川に投げた。小石は川面を5回はねてから、水の流れにすべり込んだ。
「僕もやりたい」
僕が投げた小石は頭から飛び込んで、ぽとんと音を立てた。小石は川の流れに影響を与えず、夕日を映した茜色が小さく乱れただけだった。対岸では姿勢の良いススキの穂が光っていた。

ちぇっ、と口をすぼめた僕に父は目尻を下げ、再び歩きだした。僕もすぐに横に並んだ。
「お父さんは大した大人じゃないが、大事にしていることがひとつだけある」
父は僕の手を取った。
「人が暮らすのに適当なだけ拓いたら、あとは残す。自然に比べたら、人間はずっと後輩だ。お父さんはいつも、切らせて頂きます、と思いながら切ってるんだ。自然が許してくれないことをすると、いずれ人間は居場所をなくす。そうすれば、どんな仕事も意味がなくなってしまうんだ」
父の声は穏やかだった。僕は黙って耳を傾けていた。
「欲張りすぎるなよ。どんな仕事でもな」
僕はこっくりと頷いた。

僕は本気だった。父のような人になりたい。父が切り拓いている土地を発展させたい。便利なだけでなく、人と自然が調和できる場所を残した優しい街をつくりたい。

僕が市議会議員になった時には、砂ぼこりの舞う国道はコンクリートで整備されていた。国鉄が通り、学校の数も増えていた。市議として若葉マークを貼りつけていた頃、決議されたのは新しい駅を増やすという議案だった。当時、ひとつだけ距離の長い区間があり、駅の建設にあたり僕は区画整理事業に携わった。

頻繁に開催された地域への説明会では、反対住民も少なからずいた。一軒ずつ近隣住民のもとを回り、頭を下げては全身に批判を浴びた。僕のやりたいことはこんなことだったのか? そんな心の呟きも塵のように舞い散り疲弊していた時、僕のもとに届いたのは病気療養をしていた父からの荷物だった。

それは一着のスーツだった。父がここ一番という時に必ず着ていたスーツ。子ども心に焼きついた、憧れのスーツだった。

父はそれを「魔法のスーツ」と呼んでいた。そのスーツを着ると、どんなに難しい商談もまとまるという嘘のような話だった。生地や仕立てのことは子どもの僕には分からなかったが、確かにそのスーツを身につけた時の父は立ち姿まで違って見えた。

再会しても変わらずひとめで上質だと分かる滑らかな生地。手をすべらせるとシルクを織り交ぜた細い糸が品格をさり気なく主張する。かっちりと仕上がるのはイギリスの生地の特徴だ。

スラックスを手にした時、箱の底に白い封筒が見えた。丁寧に折りたたまれた便箋を引き抜いて開くと、そこには父の筆跡があった。

「欲張りすぎるなよ」

病床で書かれた震える文字。僕はその文字を何度も指先でなぞり、胸に押し当てて泣いた。僕は、父のような人になりたい。

「失礼します」
ノックの後にドアが開き、入ってきたのはさっきの若造だった。

「改めて、お願いがあって参りました」
「なんだ」
僕が新聞を開いたまま膝に乗せると、若造は僕の前で膝をついた。

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