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埋もれた人生を探っていくインドリダソン『湖の男』

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埋もれた人生を探っていくインドリダソン『湖の男』

 大事な本を一冊お薦めし忘れていたのである。いかんいかん。アーナルデュル・インドリダソン『湖の男』(東京創元社)は今年の必読書の1冊だ。

 すでに説明するまでもないと思うが、インドリダソンはアイスランドの作家である。かの国のミステリー作家としては異例の知名度を誇り、過去に北欧ミステリーにおける最高の栄誉である「ガラスの鍵」賞を『湿地』『緑衣の女』で2年連続獲得している。『緑衣の女』は英国推理作家協会(CWA)ゴールドダガーも受賞して二冠となった。邦訳はその2冊以外に『声』が出ており、すべてアイスランドの首都レイキャビクの犯罪捜査官エーレンデュルを主人公とする作品である。

 インドリダソンの作風を端的に言うと、深く打ち込まれた杭を掘り返す小説である。杭とは誰かの人生であり、それが過去に埋もれて頭だけが見える状態で発見される。たとえば前作『声』では、とあるホテルの門番として働いた男が、下半身を露出した惨めな姿で死んでいるのが発見される。しかし誰もが予想しなかったことだが、彼には実は輝かしい過去があったのである。過去から現在までに男の人生に何が起きたのか。エーレンデュルによる捜査は、それを明らかにするために行われるといっていい。どんな人生にも特有の意味と重さがある。インドリダソンの小説を読むたびに、そのことを思い知らされるような気がするのだ。

新作『湖の男』は気象の異常によって干上がりつつある湖から白骨死体が発見される場面から始まる。その死体には大きな機械が重しとして縛りつけられていた。調査によりそれは、冷戦時代に旧ソ連で作られていた諜報用の無線連絡機だということがわかるのである。アイスランドは国の方針によって軍を持たないが、対ソ重要拠点としてアメリカ軍が冷戦構造崩壊まで駐留していた。死者はスパイ活動に従事していたのだろうか。捜査を担当するエーレンデュルたちは、各国の大使館など馴染みのない相手への聞き込みを余儀なくされる。

 現在の捜査活動と並行して、トーマスという男の回想が綴られていく。彼は1950年代に、東ドイツ(当時)のライプツィヒ大学に留学していた。社会主義思想を信じ、自分たちの力で祖国を変えるために学問を修めようとしていたのだ。しかし東ドイツは理想とは裏腹の全体主義国家だった。相互監視と密告が奨励され、学生たちの思想活動はさまざまなやり方で制限されていたのだ。ハンガリーからの留学生であるイローナによって現実を知らされ、トーマスは自分の進むべき道に疑問を抱くようになる。

 過去のパートが現代のそれといつ合流するのか。そして湖の死体は何者かという謎についてのヒントは、過去パートのどこに示されているのか。その関心によって読者は物語に引き込まれていく。読み進めていくと意外なところに分岐があり、そこで謎の選択肢が提示されるところがおもしろい。最後の最後に、どっちだろうか、と首を傾げる瞬間があるのだ。このへんが謎解き小説としての工夫だろう。エーレンデュルが一つの証拠にこだわり続けたことが小さいながら成果を上げる展開など、警察捜査小説ならではの興趣もある。

 エーレンデュルという主人公には離婚歴があり、妻と別れた後は二人の子供をまったく顧みることがなかった。そのせいか子供のうち姉のエヴァ=リンドは薬物依存症になり、人生に行き詰ってしまった。エーレンデュルはそのことに戸惑い、彼女を助けたいと考えながらも手を伸ばすことができずにいる。この第四作において初登場するのがエヴァの弟、シンドリ=スナイルだ。彼によってエヴァには自分に見せているのとはまた違った一面があると知らされ、エーレンデュルの困惑は深まっていく。彼の家族を巡るサブプロットが、メインプロットに付随する形でほどよく提示されるのがこのシリーズの特徴だが、主筋の謎解きとエーレンデュルの悲劇との間に共通項があることがだんだんわかってきている。

 前作『声』において、エーレンデュルが心の中に欠落を抱えている原因が、幼いころに弟を遭難死させてしまったからではないかとほのめかされた。本書でもそのエピソードが引き継がれ、さらに思索が深まっているのである。どんな人間にも過去がある。取り返しのつかない過去、なかったことにはできない過去がその人の現在にどのような影響を与えるかを、作者はエーレンデュルという男を通じて描こうとしているのだ。

 特に政治主張の激しい物語ではないが、人間を人間として扱わない体制、システムが生み出した悲劇を冷静に描いており、読後に深い余韻が残る。一つの人生をこれで読み終えた、という実感が伴うからだろう。

 ヘニング・マンケル亡き後、今もっとも読みたい警察小説作家は間違いなくこのアーナルデュル・インドリダソンである。楽しみなことにまだ未訳作が10作以上あるらしいのだ。10作以上も!

(杉江松恋)

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