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認知症介護小説『その人の世界』Vol.30 変わるもの変わらないもの

家が、見つからなかった。

歩いて歩いて、ずっと歩いて、日が暮れるまで歩いて、でも見つからなかった。

「乗ってください」
若いお姉さんが車のドアを開けた。乗るしかないのだろうと思った。どこなのかも分からない舗道の縁石に腰を下ろした私の膝は立ち上がろうとすると笑い出すし、持っていたはずの財布もいつの間にか失くしていた。
「探しましたよ。ずいぶん歩いたんですね」
運転席でお姉さんがよれよれの声を絞り出した。私は助手席でハンカチの入った巾着の紐を握りしめながら深くうつむいていた。

私の家はどこにいってしまったんだろう。確かにあるはずの場所を目指したのに。見覚えのある通学路をまっすぐ歩き、その先の交番もちゃんと右に曲がった。
「帰ったら、ご飯を食べましょうね。お腹がすいたでしょう」
お姉さんが黄色信号でブレーキを踏むと、停まった車内の静寂にラジオが割り込んできた。

帰ったらご飯。私はどこへ帰るのだろう。そもそもこのお姉さんは誰なのだろう。そして、誰なのかも分からない人の車に乗ってしまう私は何者なのだろう。

どうしてこうなってしまったのか。私は家に帰って、家族の夕飯を作らなければならなかった。このお姉さんが向かっているのは私の家ではなさそうだし、そうなるとこんなに真っ暗な時間からでは夕飯づくりなどとても間に合いそうにない。

「どうぞ」
お姉さんが私に手渡したのは、蓋つき容器に入った飲み物だった。
「私は、だいじょうぶ」
「遠慮しないでください。脱水になっちゃいますよ」
「すみません……」

ダッスイって何ですか、ときこうとしてやめた。そんなことはどうでも良かった。お姉さんがハンドルをきるたびに胸のあたりが重苦しくなり、深い海の底に引きずり込まれていく。足首には鎖がつながれ、二度と地上には上がれないような絶望に包まれた。

「私は……」
「はい?」
お姉さんがラジオの音量を下げた。
「私は……頭がおかしくなってしまいました……。自分の家に自分で帰れないなんて……。どうして帰れないのか、自分で分からないなんて……」
あまりにもか細くて、自分でも聞き取れないかと思うほどだった。お姉さんはラジオの音量を、つけている意味がほとんどないくらいに下げた。

「どうして帰れないのか、自分で分からないんですね……」
「はい……そうなんです……。家がなくなってしまったのか、私が家を見つけられないのか、それも分からないんです……」
「家がなくなってしまったのか、家を見つけられないのか、それも分からないんですね」
「はい……そうなんです……」
それきり、言葉が出なかった。言葉を見つける気力もなかった。

蚊のなくようなラジオの音だけが流れた。お姉さんは黙っていた。黙っているというか、私の次の言葉を待っているような、そんな沈黙だった。

「私の家も……見つからないんですよ」
次の赤信号でお姉さんは言った。
「えっ」
「私の家は、波で流されたんです」
「波で?」
「はい。波で」

青信号を確かめると、お姉さんは再び車を走らせた。
「家が見つからないって、それを体験した人にしか分からないですよね。私の場合は、まるで身体の一部を失うような感じです」
「はい、そんな感じです」
「新しい家はあるんです。でも、やっぱりあの家が私の家なんですよ。もうないと分かっていても、見に行きたくなるし、探したくなるんです。心が、あの家を求めているんです。それなのに見つからないんです。心がえぐられるようです」
「はい、そんな感じです」
「波がさらわなくても、時代が変われば街も変わります。私が変わっていくように、街も生きているんだなと思います。でも、変わらないものの良さって、あると思うんです。変わらないものが守ってくれることって、あると思うんです」
「はい、そう思います」

巾着の紐を胸元で握りしめたまま、私は思いを運転席に預けていた。お姉さんは続けた。
「どんな家だったのか、教えてください。次は、私と一緒に探しましょう。私の家は流されてしまったけれど、今もあるはずの家なら探した方がいいと思います」
「ほんとうに? ほんとうに一緒に探してくれる?」
「はい、探しますよ。一緒に」
「ああ……」
ふわりと軽くなったのは何だろう。足首の鎖が外れ、ゆらゆらと光る海面がぼんやりと見えた。

「見つかるまでは、これから行く所がお家だと思ってもらえると嬉しいです。第二の我が家と呼んでもらえるように、私も頑張ります」
「第二の我が家……」
「はい。あそこにも、変わらないものがあります。毎日変わっていく時代と街の中で、毎日変わっていく私たちの、『変わらないもの』です」

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