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認知症介護小説『その人の世界』Vol.29 つくり話

裕ちゃんこと、石原裕次郎。
若い頃はやんちゃなイメージが強くて、それほど好きというわけでもなかった。

きっかけは友達が誘ってくれたコンサートだった。タダでチケットをくれると言うからついて行っただけで、その時はまさかこんなに好きになるとは思っていなかった。

コンサート会場で前から3列目の私に、裕ちゃんは何度も視線をくれた。裕ちゃんの声は渋いだけでなく色気がある。私は裕ちゃんが自分のためだけに歌ってくれているような気にさえなって、甘い夜霧に酔いしれた。

その時から追っかけは始まった。コンサート会場の裏口で、私は早朝から裕ちゃんを待つようになった。裕ちゃんは忙しそうに通りすぎたけど、私にだけは必ず笑いかけてくれた。どんなにファンが押し寄せても、私とは欠かさず握手をしてくれた。

いつしか私は、裕ちゃんの自宅の前も訪れるようになった。門の前にはたいてい数人のファンがうろうろしていた。あからさまにするのも悪いと思い、通行人を装っては窓の中をうかがった。窓にはいつもカーテンが引かれていて、裕ちゃんの姿を見ることはできなかった。けれど私はそれで満足だった。

事情が一変したのは雨あがりの日曜日、帰宅した裕ちゃんに出くわした時だった。裕ちゃんは奥さんのまき子さんと一緒だった。「どうぞ」と笑いかけた裕ちゃんが門を開けると、まき子さんが私の背中に手を回して玄関へ招いてくれた。

「いつも応援してくれてありがとう」
応接セットのソファで両膝を揃えて緊張している私に、裕ちゃんはサイン入りのレコードをくれた。裕ちゃんの後ろからまき子さんが現れると、上品な花柄のティーカップに淹れた紅茶を静かに置いた。

夢のような時間だった。海やヨットの写真を見せてもらったり、夫婦のなれそめ話を聴かせてもらったり。仲の良い二人のやり取りは愛に満ちていて、私にとって一生忘れない幸せな時間となった。本当は夢だったのかと思うほど……。

「あら、石原裕次郎だ。懐かしい」
ぼそりと呟いたのは、私の隣に座っていた奥さんだった。
「えっ」
テレビ画面に目をやると、裕ちゃんが「ブランデーグラス」を歌っていた。

私はちょっと馴染みの場所で、ちょっと馴染みの奥さんとコーヒーをすすっていた。何の集まりだったか名前は忘れてしまったけれど、私は声をかけられた時だけ出てくる適当な参加者だった。今日の集まりでは簡単な手作業をして、すぐに休憩となった。

「裕次郎、亡くなってからもう何年経つのかね」
奥さんが言った。
「えっ!」
胸を丸太で突かれたような衝撃だった。私は身体ごと奥さんに向き直り、身を乗り出した。
「亡くなったって、どういうこと!?」

奥さんは椅子にもたれながら、のんびりした口調を変えなかった。
「亡くなったじゃないの。もう何十年も前に」
「嘘よ! 私、そんなこと聞いてないもの!」
見開いた目が熱を持った。裕ちゃんが……死んだ!?

「聞いてないも何も、あの頃テレビでさんざんやってたじゃないの」
奥さんの語尾には笑いが含まれていた。
「何がおかしいのよ! 裕ちゃんは私の友達なのよ!」
「友達?」
「そうよ! お家に入れてもらって、レコードまでもらったんだから!」
相手は半開きの口をほったらかしたまま私を見た。

「裕ちゃんが死んだなんて、冗談もいい加減にしてよ! こうしてテレビに出ているじゃないの!」
「だってこれは録画だから……」
「録画は分かってるわよ! 生放送じゃないんだから!」
「そうじゃなくて、これは昔の……」
「ああっ! 話の分からない人ね!」
軽くテーブルを叩いた私に奥さんは目をむき、音を立ててコーヒーカップを置いた。
「話って、変な作り話をしているのはそっちじゃないの!」
「作り話なんかじゃないわよ!」
「作り話じゃないの! とっくに死んだ人がまるで生きてるみたいに話をして、まして裕次郎が友達だなんて!」
「全部ほんとうのことよ! 何て失礼な人なの!」
私は立ち上がり、建物の玄関へ向かった。信じられない。あんなふざけた奥さんだとは思わなかった。

「うわあ」
通路の角でぶつかりそうになったのは、この集まりの呼びかけ人だった。多少気分がのらない時でも、この人に誘われると何となく参加してしまう。
「すごい勢いで、どうしたんですか」
相手の女性は反り返ったまま、ぱちりと一度まばたきをした。

「もう、ひどいの! 私の隣に座っていたおばさん、私にひどいこと言ったのよ!」
「ひどいって」
「私もう帰るから! いられないわよ、あんなこと言われて!」
「ちょ、ちょっと、一度座ってお話聴かせて頂けませんか」
女性は私の肩にそっと触れ、壁際のソファに私を促した。

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