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「シンプルに端的に」の逆を行く 滝口悠生・新刊『茄子の輝き』を語る(前編)

「シンプルに端的に」の逆を行く 滝口悠生・新刊『茄子の輝き』を語る(前編)

「小説」や「文学」に対する一般的なイメージとして多いのは「難しくて読みにくい」「よくわからない」といったものだろう。それだけに、「どうせ最後まで読めないから」と敬遠されてしまうことが起こり得る。

しかし、「よくわからないが、抜群におもしろい」「読みにくいが、なぜか読めてしまう」類の小説は、確実に存在する。

滝口悠生氏の小説はその代表格だろう。スピード感のあるストーリー展開で、読者を物語に引っ張り込んでいく、というタイプではない。語り口はゆっくりと、迂回したり、寄り道したり、立ち止まって佇んだりのそぞろ歩き。もどかしさを感じるかと思いきや、案外それが心地よかったりする。

そんな世にも不思議な「滝口ワールド」。ご本人はどう考え、どう創りあげているのだろうか。(インタビュー・記事/山田洋介)

表紙

■揺れ動く思考と記憶を捉える

――滝口さんの小説は、作品に強烈にひきつけられるというよりは、読みながら自由に思索したり、自分の記憶を手探りしたりする楽しさがあります。こうした効果についてはある程度、意識して書かれているように思ったのですが、いかがでしょうか。

滝口:それは自分の小説の書き方と関係があるかもしれません。語り手が考えることや見るものが、ある程度の「散漫さ」を保つようにといいますか、単純な因果関係や感傷みたいなものに小説が引っ張られすぎないように気をつけています。

「そうかもしれないけど、そうじゃないかも」というように、焦点を広めにとっているのがそういう効果につながっているのかもしれません。

――語りが直線的でないといいますか、あちこちに寄り道しながら進んでいきますよね。

滝口:でも、そういうものだと思うんです。僕らが何か一つのことを考えようという時も、目的に一直線には向かわずに色々なところを寄り道したり、別のことを考えたりしながら思考が進んでいく。

人が何かを考えたり、思い出したり、言葉にする時、向かおうとしているのとは別の方向に行ってしまうことは往々にしてあるわけで、それが一つの自然な形として小説の中に残るようにはしています。

――新刊『茄子の輝き』も、まさしく語り手の散漫さが心地いい作品です。回想と現実が気ままに入れ替わるなかで、語り手が時折思い出す離婚した妻の周辺の出来事が定点のようになっていますが、それも時期が前後していたり、揺れ動いています。

表紙

滝口:思い出すきっかけや時期が違えば、同じ人の記憶であっても場面や姿が違うはずですし、思いもよらないことを思い出すこともあります。

たとえば、あるきっかけで10年間一度も思い出さなかった出来事を思い出して、10年間思い出さなかったこと自体に考えが及ぶこともある。何かを思い出すというのは、そういう風にふらふらして、整理されないものなので、それを書く時もきれいな輪郭にはならないんです。

――この作品がどのようにできあがっていったのか、お話をお聞きしたいです。

滝口:この本の最初に入っている「お茶の時間」という短編が、単独で発表したものとしてまずあって、少し時間をおいてから続きを書いて、ひとまとまりにしていった感じです。だから、本になった時のイメージが最初からあったわけではありません。

「お茶の時間」を書いた時に考えていたのは、小さい会社のこじんまりとした職場の雰囲気を書いてみようというのと、震災から少し経った後の東京を書きたいというものでした。

――想像力のきっかけとして震災があったのでしょうか。

滝口:きっかけというわけではないです。小説の中の時期としては震災後なんですけど、震災後の東京の雰囲気を書きたいというよりは、そこにいる「人」を書きたいというのが主でした。

だから、震災についてダイレクトに触れている部分というのは少なくて、誰かの考え方や行動や、ある場所についての描写のなかに「触れずには済ませられないこと」として出てきます。

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