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認知症介護小説「その人の世界」Vo.26大切な君へ

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その人の世界

大切な君へ。ちょっと真面目な話だよ。

今日の僕も帰り道を間違えなかったみたいだね。メモの作り方がうまくなったから、メモさえあれば大丈夫だと思う。物の置き場所リストはすごく効果があって、家の中ではほとんど困らなくなった。さすがに忘れ物リストは作れないから、置き忘れてきた物はなかなか見つからないけどね。

年を取れば誰だって、若い頃のように憶えていることは難しくなるよね。僕はたまたまそうなるのが早くて、そして早いということを僕自身が分かっている。それだけのことであって、それが特別なことだとは最近は思わなくなったよ。

もちろん、急に何もかも不安になって、どうしたらいいか分からなくなって、何でもないことで怒り出してしまう時もあるよ。だからこそ今、君に伝えたいことがあるんだ。

それはね。

もしも僕が今より怒り出すことが多くなっても、決して君のことを嫌いになったわけではないからね。何が分からないのかも分からなくなると、人の気持ちを考える余裕がなくなってしまうんだ。多くの人はきっと、誰にも迷惑をかけたくないと思っているよね。僕だってそうだよ。だからそうならないように頑張っているのにさ、うまくいかないのは悔しいよね。そう、怒り出す時は、悔しいんだね。

それから。
もしも僕が君との約束を守れなかったとしても、僕にとってその約束が大事でなくなったということではないよ。むしろ、そんなことが起こるなんて思いもしない今の僕がそれを知ったら、どれほど悲しむだろうね。それだってやっぱり君はがっかりするかもしれないから、今のうちから謝っておくよ。本当にごめんね。

そして。
もしも僕が君の知らない女性の名前を呼んだとしても、それをどうすることもできなくて悲しいのは僕であるということ。僕が生涯をかけて愛したのは君で、そのことを一番知っていてほしいのも君であるということ。

今の僕には、君の名前だけは忘れない自信があるよ。たとえ蛇口のひねり方を忘れたとしても、ブレーキとアクセルが分からなくなったとしても、君の名前は僕の中の誰にも分からないところに深く刻んであるからね。

だから僕が君の名前を呼ばなくなっても、どうか分かってほしい。呼ばないのではなく、呼べないのだと。その時きっと僕の中で君の名前は反響し、別の形であふれ出しているだろう。僕はありったけの力を込めて、どうか君に僕の思いが届くように弓を引き絞る。それがもし、とんちんかんな行動だったら、ちょっとくらいは笑ってもいいよ。

僕が心配しているのは、君が頑張り屋さんだってこと。それもひどく頑固な。一度言ったことは良くも悪くも曲げないし、それに従おうとする。厄介なほどに責任感が強くて、信念を貫く。

それが悪いと言っているわけじゃないんだよ。ただ、必ずしもそうでなくていいと僕は思うんだ。きっと僕は自分でも気づかないうちに君を苛立たせたり、傷つけたりするだろう。その時に、君は信念ではなく感情に従ってもいいんだ。そうやって少しずつ、自分を解放してあげてね。言われなくても僕の方はそうなっていくだろうから。

どんな姿になっても僕は君の手を取り、君を守りたいと思っている。ひよこ色の日ざし、音楽を奏でる水玉、風と戯れる緑、恥じらうような花びら、それらにいろどりを与えるのは君なんだ。君がいなくなれば全ては色を失う。僕には守るべきものはなくなり、モノクロに包まれる。ひとつのめぐり会いがこんなにも世界を美しく変えるなんて、どうしたら想像できただろう。

男なんてさ、かっこつけたいものなんだ。だからこんなことを言ったら君は驚くか笑うだろうね。だってこんなこと、今までにただの一度も言ったことがないんだから。

ここまで書いて僕はパソコンのキーボードから手を離した。文字を打つのは疲れる。
「何してるの」
部屋の引き戸が開き、明るい声が飛び込んできた。

「いや、大したことじゃないよ」
僕はパソコンの画面を相手から見えないように身体で遮った。
「ふうん。電気つけた方がいいよ」
「わかってる」

引き戸が閉まり、スリッパの足音が遠ざかる。僕はそれを確かめてから、改めて並んだ文字を眺めた。
「ちょっとあれかな……」

大切な君へ。
やっぱり言わないでおくよ。だって、実はこれが100回目だったら、すごくかっこ悪いじゃないか。

※この物語はフィクションです。

あとがき

若年性と位置づけられる年齢の方々が、今や多くの場所で思いを発信してくださるようになりました。それらは社会活動であるが故に、当然のことながら社会へ向けたメッセージです。けれど大切な身近な人への思いもあるはずで、逆にそれは言葉にしないことが多かったりして、などと想像しています。

認知症であってもなくても、この物語が大切な人への思いを伝えるきっかけとなれば幸いです。

悲しみや苦しみ、切なさ、喜び、そしてきらめきは、誰もがその人らしさとして持ち合わせ、それは認知症であってもなくても同じです。認知症の真の理解のため、物語の力を私は知っています。

この記事を書いた人

阿部 敦子

所持資格:介護福祉士、認知症ケア専門士、介護支援専門員。神奈川県相模原市出身、同市在住。高校卒業後、経理事務を経て医療事務に。保険請求業務よりも窓口で高齢者と関わることに楽しみを見出す。父親の死により介護を強く意識し、特別養護老人ホーム、訪問介護事業所、13年間の認知症対応型通所介護事業所を経て、現在も介護の仕事に携わる。平成25年に相模原市認知症介護指導者となる。認知症に対する理解を広めたいと強く思うようになり、認知症を題材とした小説を書き始める。

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