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認知症介護小説『その人の世界』vol.24

もうどこにも行きたくない。誰にも会いたくない。

私には馴染みの集まりがあった。この地域に引っ越してきた八年前から地区の婦人会に入っている。夏祭りやどんど焼き、防災訓練など、地区のあらゆる催しを手伝う。古くから仕切ってきた先輩の女性たちはとても親切で、何も分からない私でも自然に打ちとけることができた。八年も経てば活動の流れもよく分かっているし、すっかり生活の一部になっている。

ところが先月、娘が急にこんなことを言い出した。
「お母さん、ちょっと定期的に行ってほしい所があるの。今の婦人会じゃなくて、新しいところ」

その時は嫌だとは思わなかった。自分なら新しいところでもわりとすぐに馴染んで、役に立てるはず。

「だから、さっき言ったでしょう」
隣の席のおばさんが語気を強めた。
「四つ折りにしたら、次は開くのよ」
「次は開く……」
指先でつまんだ紙を見つめたまま、私の動きは止まっている。開くと言われたことは分かっている。

「分からないの?」
おばさんが横目で私を見た。確かこの間もこのおばさんの隣だった。分からない、と言うことができない。普段は言えるのに、なぜか今は言えない。このおばさんはこういう言い方が普通なのかもしれない。けれど私には怒っているように聞こえる。何が分からないのかが分からないなんて言ったら、どうなるんだろう。

「黙ってたらこっちも分からないでしょう。何か言ってくれないと」
そう言われても、やっぱり言葉が出ない。声を発するために必要なものをどこかに全部落としてきたみたいだ。自分の分からないことをどう説明すれば伝わるのか分からない。頭が巨大な輪っかにぎゅうと締めつけられるような感じがする。

「こんな簡単なことが分からないの? 開くってだけなのに」
おばさんは見せつけるように肩でため息をついた。
「こういうことは、あまりやったことがなくて……。得意じゃないっていうか、好きじゃないっていうか……」
声が上ずっていると自分でも分かっていた。それでもどうにか言葉が出た。
「はあ?」
おばさんは下から上へと視線を移しながら私を見た。
「あなた、ここで一番新しいんでしょう? こんなことね、私だってやりたくてやってるわけじゃないのよ。やれと言われているし、他にやることがないからやっているの。ここでこれをやりたくないって言ったら、あとはただぼおっと座っているだけなのよ」

指先にきゅっと力が入った。だったら帰ればいいじゃない。私だって帰りたい……。

「あなたみたいな人がいると、なんだか教えている自分が情けなくなってくるわ。新人のくせに、何も覚えられないで言うことだけは一人前なんだから」
「すみません……」
景色がにじんだ。これ以上何か言おうとすれば、言葉より先に涙がこぼれそうだった。部屋は学校の教室ほどの広さだった。ふたつつなげた長方形のテーブルでは、数人のおばさんやお年寄りたちが紙で何かを折っていた。

「この人、無理だと思うよ」
離れた台所でお茶を淹れている若い人に向かって、隣のおばさんが言葉を投げた。その若い男の人は手を止めて急須を置くと、こちらへ歩いてきた。
「どうしました?」
「あのさ」
隣のおばさんはその場にいる全員に聞こえるような声で言った。
「この人、みんなと同じことができないのよ。私が何度教えてもできないし、何が分からないのかきいても返事もしないし。言ったかと思えば、こういうのは好きじゃないとか。そんなのさ、やってる人たちに失礼じゃない。帰らせてあげれば」

もう、何も構わないでほしかった。この部屋が世の中のすべてのように思えた。そして自分は役立たず者として切り離され、命綱もなく宇宙空間に放たれてしまうのではないかという恐怖に襲われた。それはまるで自分の身体が砂のように崩れ、風に吹かれてさらさらと形を失って行くような感覚だった。もう、帰りたい。どこにも行きたくない。誰にも会いたくない。

「ああ……」
男の人は詫びるような目で私を見た。
「ちょうど今、お茶を淹れていたんです。手伝って頂いてもいいですか」
「え……」
見つめ返すと、男の人は確かに私を見ていた。
「いいですか?」
もう一度、男の人は言った。男の人の笑顔がやわらかで、私は「はい」と頷くと目頭を指先で拭った。

「この急須を使っています」
台所で差し出された急須のふたを取り、私はポットの給湯ボタンを押して急須に湯を注いだ。
「おうちのポットと違うから分かりにくいですか」
お茶菓子の皿を隣で並べながら、男の人が私の手元をちらりと見た。
「いいえ。婦人会でいろんなポットを使いこなしているから、これくらいは」
「そうですか」
そう言ってから、男の人は私の耳元で囁いた。
「実は、さっきのお隣の席の方、ポットを使うのが得意じゃないんですよ」
「あら……」
「ねっ」

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