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認知症介護小説『その人の世界』vol.23

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~まえがき~

阿部さま

お世話になります。
世の中誤解があるのですが、胃ろうなど経管栄養の方のお楽しみ食は、アイスクリームではありません。お食い締め(看取りの方への最期のひとくち)なら良いと思いますが、命をつなぐ段階であればアイスクリームの提供は、ミキサー以上の経口摂取が可能な方が対象と存じます。

この場合、果実ジュースゼリーや(クリープなし、砂糖はOKの)コーヒーゼリー、あるいは、果実ジュースや(クリープなし、砂糖はOKの)コーヒーのとろみの提供が良いでしょう。つまり、タンパク質を抜くことで肺炎惹起を抑えるのです。

ご参考までに。

牧野日和

本文

なんか……たぶんなんだけれど……。

たぶんここは……天国よね……。だって、なんだかぼおっとして、生きている実感がないし……。

お腹がすかないの……。食べなくても生きていられるなんて……おかしいでしょう……。

だけど、それにしても……天国ってもっといいところだと思っていたのよ……。お花畑があったり、お釈迦さまがいたり……。ぼおっとするより、ふわふわした感じなのかと思っていたのに……。

今は……白い壁みたいなのが見えて……ときどき、がやがやして……。知らない人が触ってきて、わたしを丸太みたいにごろごろ転がして……。

近くに人が来て、よく分からないことを言ってくると……たいていそのあとは、なんだかお腹がふくれてくるのよ……。しばらくすると……胸のあたりが、じりじりと焼けたみたいになったり……。

天国に行ったら……会えると思っていた……お父さん、お母さん……。わたし、素直ないい子じゃなかったから……待っていてくれなかったの……。

だんなさんだって、先に行ってるはずよ……。とっても仲良しだったのに……。そう思っていたのは、わたしだけだったの……。

だんなさんとわたし……ダンスが好きだったのよね……。すごく流行ったのよ、社交ダンス……。

ダンスの帰りにはいつも……アイスクリームを買って食べたっけ……。わたし、アイスクリームが大好きだから……だんなさんが必ず買ってくれて……。バニラのね、棒のやつ……。当たりが出ると、子どもみたいにはしゃいだっけ……。

アイスクリームは子どもの頃から、バニラが大好きだった……。お父さんが買ってきてくれて、お母さんと三人で食べたの……。動物園に行ったときは、特別大きいアイスクリームだった……。

そういえばダンスって、夫婦でやるといいのよ……。だって、ぴったりくっつくでしょう……。ダンスの集まりって、男の人のほうが少ないから……だんなさんは他の女の人と踊ることもあったわね……。それでわたしがやきもちを焼いて、アイスクリームで仲直りして……。

ねえ、わたし、ずっとこのままなの……。ここが天国だったら、もうどこにも行かれないってこと……。天国に、次の天国なんて、ないでしょう……。

ねえ、本当に、ここがわたしの天国なの……。わたし、人並み以上の悪いことなんて、していないと思うの……。そりゃあ、ちょっとお金をつかいすぎたり、寝坊しちゃったり、かんぺきじゃなかったけれど……。

もうずっと、ずっと、こうして、よく分からないこと……たとえば、急にお湯をかけられてびしょびしょになったり……急にからだの向きを変えられたり……そもそも、自分では動けなかったり……そんなことが続いて、ここにずっとに居続けなければならないの……。

どうして、わたしだけ、こんな……こんなふうに中途半端なの……。こんなことなら、天国なんかなければ良かった……。なんにもないところに、消えてしまえば良かったのに……。

「その子さん」

ああ……また、よく知らない人の声がした。よく知らない人ばっかり……。ああ、お父さんとお母さんに会いたい。だんなさんに、会いたい……。こんなことなら灰になって、風に吹かれてしまいたい。もう、ここに居るしかないの……。

「その子さん、ちょっとからだを起こしますよ」
からだの背中のほうが、ぐーっと押されて、そのあと、お部屋が見渡せた。それから、よく知らないお姉さん……。

「その子さん、いまから、ちょっと冷たいものが、お口に入りますよ」
何か言ってる……。

目の前に、手が現れた。誰の手なの……。その手がゆっくりと近づいてきて……。

くちびるが、ひんやりとした。口の中に、広がる。冷たくて……冷たくて……あっ……甘い……。冷たくて……甘いもの……。冷たくて、甘い……。冷たくて、甘い。

冷たくて、甘い!

わたしは目を見開いた。しゅるしゅると巻き戻されるフィルム。色あざやかに映像となる。いろどりとともによみがえったのは、だんなさんの笑顔。ダンスの帰り。差し出される手。棒のアイスクリーム。

舌を包む懐かしい甘さ。鼻から抜けるバニラの香り。動物園。お父さんの肩車。お母さんとつないだ手のぬくもり。特別大きいアイスクリーム。はしゃいでいるわたし。

消えてしまう。消えないで。

夢中で舌を上のほうに押しつける。おいしい、と思った。この「おいしい」を、ずっと味わっていたい。

「その子さん、もうひとくち、どうぞ」
ああ、ありがとう。舌で受け取った感覚。まろやかで冷たい。

わたしはいま、味わっている。ねえ、もしかしてわたし、まだ天国じゃないの? だってこんなにはっきりと、冷たくて甘いと、そしておいしいと、感じることができているの。

「その子さん、明日もまた、たべましょうね」
はい、お姉さん。明日も食べられるのね。わたし、やっぱり生きているのね。

バニラの風味と大切な思い出が消えてしまわないように、わたしは舌の先でくちびるをなめた。上のくちびる。それから下のくちびる。こんどはくちびるを閉じて、舌をうごかす。からだじゅうを満たしていく、ほのかな甘み。

だんなさん、わたしまだそっちには行かないわ。だってこんなにおいしいの。アイスクリームなんて、たぶんそっちにはないでしょう? あなたとの思い出を、もっとちゃんと味わってから行きたいの。ずっと忘れていたようなことだって、明日には思い出すかもしれないわ。このお姉さんが、明日を約束してくれたから。

「その子さんは本当に、アイスクリームが好きなんですね。昔から好きだったって、ききましたよ」
お姉さんはにっこりと目を細めた。

はい、そうなんです。お姉さんはわかってくれている。明日もお姉さんに会いたい。お姉さんに会えるなら、もう少し生きていてみたい。

「それじゃあ、また来ますね」
お姉さんの姿が見えなくなっても、わたしはその気配の余韻を味わっていた。わたしがいて、お姉さんがいた。

わたしは確かに存在している。いま、ここに。

※この物語は、著者の介護体験をもとに介護施設での場面を描いたフィクションです。

あとがき

今回も牧野日和先生に監修して頂きました。まえがきにある先生からのアドバイスを受け、私はあえて本文を修正しませんでした。修正せず、先生のこのアドバイスとともにありたいと思ったのです。

胃ろうをはじめとする経管栄養で食事をされる方にとって、口からの楽しみを考えてくれる誰かがそばにいることは大きな意味を持つことでしょう。けれど私のような勉強不足の人間であれば、命に関わることもあります。

昔から甘いものが大好きだったとご家族から聴き、経管栄養の方にアイスクリームを差し上げていたことが私にはあります。いつもぼんやりしていても、その時だけはハッと目を見開き、口をもぐもぐと動かし、笑顔になられました。あの経験にどれほど自分は支えられてきたか分かりません。けれどそこに誤りがあると思いもしなかった当時の自分の無邪気さに、今ではぞっとする思いです。そして、美談ばかりでは済まないことも多いと牧野先生は教えてくださいました。先生の「悩ましい」という一言に込められた切なさや苦しみは、介護従事者として察するに余りあります。

時に倫理的ジレンマに苦しみながら、最善を尽くすために考えることをやめない。それが、これまで私を支えてくれたお年寄りたちへの感謝の表現でもあります。

悲しみ、苦しみ、切なさ、喜び、そしてきらめきは、誰もがその人らしさとして持ち合わせ、それは認知症であってもなくても同じです。認知症の真の理解を広めるために、物語の力を私は知っています

前回記事:認知症介護小説『その人の世界』vol.22

【監修】牧野 日和(まきの・ひより)
「お食い締め」支援の創始者。 歯学博士、言語聴覚士、認定心理士の3つの視点で「食べる」と「生きる」を探究する。 執筆は、今日の治療指針(医学書院)、口から食べるを支えるケア(中央法規出版)など多数。現在は愛知学院大学心身科学部講師として従事するかたわら、全国で講演活動を行っている。

この記事を書いた人

阿部 敦子

所持資格:介護福祉士、認知症ケア専門士、介護支援専門員。神奈川県相模原市出身、同市在住。高校卒業後、経理事務を経て医療事務に。保険請求業務よりも窓口で高齢者と関わることに楽しみを見出す。父親の死により介護を強く意識し、特別養護老人ホーム、訪問介護事業所、13年間の認知症対応型通所介護事業所を経て、現在も介護の仕事に携わる。平成25年に相模原市認知症介護指導者となる。認知症に対する理解を広めたいと強く思うようになり、認知症を題材とした小説を書き始める。

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