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エリック・クラプトンが薬物中毒から完全復帰して完成させた名盤『461 オーシャン・ブールヴァード』

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1971年の夏から秋にかけて、クラプトンにとっては心労が絶えなかった時期であった。デレク&ザ・ドミノズの解散や盟友デュアン・オールマンの死が相次ぎ、アルコールや薬物に依存するようになっていく。ベテランとはいえ、この頃のクラプトンはまだ20歳代である。本当に死にかけるぐらいの心身の状態で、廃人同様の生活を送っていたのだが、友人たちのサポートもあって一念発起し、死の淵から脱出する。73年にはミュージシャン仲間がクラプトンのためにコンサートを開催し、クラプトンはリハビリを兼ねて参加する。それが有名な『エリック・クラプトンズ・レインボー・コンサート』で、ピート・タウンゼント、スティービー・ウインウッド、ロン・ウッドらがクラプトンをバックアップしているのだが、まだ彼は本調子でないだけに内容は良くない。しかし、その1年後にリリースされたのが本作『461オーシャン・ブールヴァード』で、彼の完全復帰した姿が味わえる秀作となっている。
『461 Ocean Boulevard』(’74)/Eric Clapton (okmusic UP's)

70年代はギターヒーローの時代
僕が中学生になった1970年は、ロックの秀作が数多く生み出された年でもあり、ロックのリスナーはどんどん増えていった。デレク&ザ・ドミノズの『レイラ』、ビートルズの『レット・イット・ビー』、エルトン・ジョンの『エルトン・ジョン』をはじめ、ピンク・フロイド、ディープ・パープル、ブラック・サバス、サンタナ、レッド・ツェッペリンらがロック史に残る作品を次々にリリースしていたが、中でもギタリストの人気は高く、エリック・クラプトン、ジェフ・ベック、ジミー・ペイジの3人については圧倒的な人気があった。当時の中高生のロック好きは、安価になりつつあったエレキギターを購入し、スターになることを夢見つつ、毎日練習に明け暮れていたのである。しかし、80年代に入ってシンセサイザーにスポットが当たってからは、徐々にギター人気は下降し、ギタリストのいないロックバンドも不思議ではなくなった。今ではバンドで注目を浴びるのはヴォーカルのみなのではないだろうか。
70年代初期のロックはギターが中心であっただけに、多くのギタープレーヤーに注目が集まったが、前述のギタリスト以外でもジミヘン、デュアン・オールマン、スティーブ・ハウ、ピーター・グリーン、マイク・ブルームフィールドらの人気が高かった。しかし、特に日本で人気が高かったのは、やっぱりエリック・クラプトンだろう。特にクリーム時代のクラプトンは、彼の全キャリアを通してもっとも光り輝いていたと思う。そんなクラプトンがギターテクを捨ててヴォーカルに力を注ぐようになり、音数多く弾きまくるスタイルから、味わい深いフレーズを地味に決めるというスタイルへと変化していく。それはブリティッシュロックからアメリカンロックへの転向であり、その成果はソロデビュー作『エリック・クラプトン』(‘70)やデレク&ザ・ドミノズの『レイラ』(’70)でも分かる。クラプトンの60年代はブリティッシュロッカーとしての活動であり、70年代はアメリカンロッカーとしての活動であったと言えるだろう。

アメリカンロッカーとしての才能
ただ、世間ではロック界最高のギタリストと評価されていたものの、クラプトン自身は、ギターの腕でデュアン・オールマン(オールマン・ブラザーズ・バンド)やロビー・ロバートソン(ザ・バンド)に勝てないと考えていたことも事実である。スワンプロックやルーツロックをやる上で、常に自分より才能のあるミュージシャンと対峙しなければならないことで、神経を擦り減らしていたのは間違いない。ある意味で、クラプトンは正直な人間だと思う。自分の耳で良いと思ったものは追いかけるし、自分にできないことは教えを乞い、対象をリスペクトするという姿勢を常に持っていたのだから。
ただ、デレク&ザ・ドミノズの解散とデュアン・オールマンの事故死についてのストレスは、自分でコントロールできなかったようだ。その後、アルコールや薬物依存で廃人のようになってしまう。しかし、友人たちがセッティングしてくれた『レインボー・コンサート』のステージに立つことで、再びやる気が芽生えた。ここらあたりも、クラプトンの真面目さが出ているエピソードだ。アルコールと薬物でどれだけ多くのアーティストたちが再起不能になったかを考えると、彼の精神力はたいしたものだと思う。

本作『461 オーシャン・ブールヴァード』について
アルコールと薬物依存のリハビリをしながら、イギリス人としての自分ができるアメリカンロックを生み出そうと、彼は日夜アイデアを練っていた。カナダ出身のニール・ヤングやザ・バンドができたように、自分なりのアメリカンロックが生み出せるはずだと信じてリハーサルを繰り返していた。
彼が向かったのはフロリダ州マイアミ。そこにあるクライテリア・スタジオだ。その住所がオーシャン・ブールヴァード461で、スタジオの住所がそのままアルバムタイトルになった。本作には長いリハビリの間に彼が考えていたサウンドのアイデアが詰まっている。まずは、当時脚光を浴びていたレゲエを取り入れる。ボブ・マーリーのカバー「アイ・ショット・ザ・シェリフ」はシングルカットされて全米1位を獲得。本来は泥臭く粘っこいレゲエを、さわやかなアメリカンロックに仕立て直したクラプトンのアレンジが冴える逸品となっている。この曲は日本でも大ヒットしたので知っている人も多いと思う。
「アイ・ショット・ザ・シェリフ」以外は、かつて彼がバックを務めたデラニー&ボニー風のサウンドをベースに、R&Bのカバー「ウィリー・アンド・ハンド・ジャイブ」(ジョニー・オーティス)や、ロバート・ジョンソンとエルモア・ジェイムスのブルースカバー「ステディ・ローリン・マン」「アイ・キャント・ホールド・アウト」などでは、意識してゆったりしたリズムで演奏している。このゆったりとしたリズムがレイドバックという言葉を生み、70sクラプトンのキャッチフレーズにもなった。
自作の名曲「ギブ・ミー・ストレングス」ではデュアン・オールマンに教わった渋いドブロギターを披露し、彼の新境地となるクラプトンならではのアメリカンサウンドが生み出されている。のちの代表作となる「ワンダフル・トゥナイト」の下敷きとなる音作りが既になされている。もう1曲の自作「レット・イット・グロウ」はブラインドフェイス時代の「プレゼンス・オブ・ザ・ロード」やデレク&ザ・ドミノズ時代の「ベルボトム・ブルース」を思わせるメロディアスなナンバーで、ブリティッシュロックっぽさをあえて醸あ出しているところに、クラプトンの悩みが吹っ切れたことを感じさせる。本作の中でもっともクラプトンらしい曲と言えばこれであろう。
「プリーズ・ビー・ウィズ・ミー」は、サザン・フォークロック・グループのカウボーイ(作者はスコット・ボイヤー)の代表曲で、オリジナルはデュアン・オールマンがドブロを弾いている。クラプトンはデュアンを偲び、ここでは同じようにドブロを弾いている。名曲!
クラプトンバンドのバック・ヴォーカリストを務めていたイヴォンヌ・エリマンとクラプトンの共作「ゲット・レディ」はレイドバックしたファンクで、エリマンのヴォーカルが光る。エリマンはこの後も5年ほどクラプトンのバックヴォーカルを務め、ソロでは世界的なディスコヒットをリリースしている。
本作のバックを務めるのは、デラニー&ボニーやデレク&ザ・ドミノズでも参加していたベースの名手、故カール・レイドル、この後長い付き合いとなるドラマーのジェイミー・オールディカー、キーボードのディック・シムズなど、70sクラプトンのレイドバック・サウンドを支えることになるミュージシャンたち。スライドギターの上手いジョージ・テリーは、フロリダ在住のミュージシャンで、ソングライターとしても有名。クラプトンの大ヒット「レイ・ダウン・サリー」(名盤『スローハンド』に収録)は、クラプトンとテリーとの共作である。

本作以降のアルバム
クラプトンは本作『461 オーシャン・ブールヴァード』で再起するわけだが、ここから怒涛の活躍が始まる。次作『安息の血を求めて』(‘75)『ノー・リーズン・トゥ・クライ』(’76)『スローハンド』(‘77)『バックレス』(’78)『アナザー・チケット』(‘81)まで、連続して秀作をリリースし続ける。パンクロックが登場しようが、シンセポップやテクノが登場しようが、決して自分のスタイルを変えることなく、いつでも金太郎飴のようなクラプトン・サウンドを提供してくれる。流行に目を配り出すのは『ビハインド・ザ・サン』(’85)あたりからで、これ以降はサウンドが変わるので、別枠で80sクラプトンとして取り上げなければいけない。
クラプトンを聴いたことのない場合は、どの時代のクラプトンを聴くかで印象が全く違ってくるので、よく吟味してアルバムをセレクトするように。僕は、どれを聴いても良い作品ばかりなので、もちろん70年代のクラプトンをオススメする。

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