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認知症介護小説『その人の世界』vol.22

「おい……し……」
確かに聞こえた。かすれたような、小さな小さな声だった。私たちは目を見合わせて、「ひゃあ」と笑った。おばあさんの唇のはしっこが微かに上がった。

「うんうん、良かったな。美味しいんやな」
私はおばあさんの肩に触れ、さすってやった。お兄ちゃんが次のスプーンを口元に近づけると、おばあさんは口をふわっと開いた。
「自分から開いてくれた……」
お兄ちゃんが呟いた。おばあさんは粥を溜め込むことなく、咳込むこともなく、きれいに飲み込んだ。それを繰り返すうち、茶碗は空っぽになった。

「すごぉい」
お姉ちゃんが手を叩いた。私はお兄ちゃんの背中をもう一度どついた。
「やるやないの」
お兄ちゃんは「へへっ」と笑って、私を見上げた。

「ずっと、どうしたら食べさせられるかばかり考えていました。でも、大事なことを考えていませんでした。どうしたら食べたくなるか、ってこと」
私はお兄ちゃんのおケツを、ぱあん、と叩いてやった。
「ええこと言うなあ! 誰でも、まずいもんは食べたないし、美味しかったら食べるもんや。そんなん当たり前のことや。お兄ちゃんもそうやろ」
「はい」
「金取ったら、喜ばせなあかん。最低でも、当たり前のことはせんとな。苦しませたら、金返さなあかんで」

お兄ちゃんは俯いて、難しい顔になった。その背中を私は撫でてやった。
「若いうちは悩んだらええ。せやけど、悩んでるだけやったらあかん。まずはやってみるこっちゃ。当たり前のことからな」

「はい」と頷いた笑顔が輝いて見えた。私はバッグから飴ちゃんをひとつ取り、お兄ちゃんのエプロンのポケットに突っ込んでやった。
「頑張ってな」
お兄ちゃんは少しはにかみ、「ありがとうございます」とお辞儀をした。
「ええ子や。年寄りやからって分からんこと言うと思ったらあかん。もの言わんから何も分からんと思ったらあかん。あんたらも、若者はみんな自分勝手や言われたら嫌やろ」
「はい」
お兄ちゃんとお姉ちゃんが同時に頷いた。

私は「あー」と腰をそらした。
「おたふくソース、たのむでな。ダシはしっかり取ってな。こんなん当たり前のことやで!」
「はい」
「って、私が言うたこと、社長にも言わなあかんで。タダで教えてやったんやから」
私が目をぎょろりとさせると、二人の笑い声が揃った。

しかし私もまだまだ引退できそうにないわ。根っからの商売人やな。

※この物語は、著者の介護体験をもとに介護施設(主にデイサービス)での場面を描いたショートストーリーです。

あとがき

今回は本文中の食事シーンについて、牧野日和先生に監修して頂きました。介護現場ではあまりにも簡単に「食べない人」「食べられない人」と診断することが多いように感じてきたわたしは、認知症ケアにおける食支援の課題をより明確化して取り組む方法を牧野先生から教えて頂きました。

主人公の関西弁はぺホス先生に監修して頂きました。「認知症にならないように」よりも「認知症になっても大丈夫」の方が素敵だな、という気付きを、わたしはぺ先生に頂きました。

下記に牧野先生とぺ先生についてご紹介しています。

好みというのは個々によるものですが、食支援に関しては出身地の情報をわたしは大事にするようにしています。介護現場では、「美味しければ食べるという当たり前」が自分の想像を超えた場所にあることもしばしばです。地域によってこんなにも違うものかと、いつも考えさせられています。そして今回はあえて、主人公の過去の職業を書かずにおいてみました。読者の方がそれぞれ想像されるのも面白いと思います。

悲しみや苦しみ、切なさ、喜び、そしてきらめきは、誰もがその人らしさとして持ち合わせ、それは認知症であってもなくても同じです。認知症の真の理解のため、物語の力をわたしは知っています。

【監修】牧野 日和(まきの・ひより)
「お食い締め」支援の創始者。 歯学博士、言語聴覚士、認定心理士の3つの視点で「食べる」と「生きる」を探究する。 執筆は、今日の治療指針(医学書院)、口から食べるを支えるケア(中央法規出版)など多数。現在は愛知学院大学心身科学部講師として従事するかたわら、全国で講演活動を行っている。

【監修】裵 鎬洙(ペ・ほす)
関西学院大学卒業後、訪問入浴介護サービスを手がける民間会社に入社。その後、居宅介護支援事業所、地域包括支援センターなどで相談業務に従事。現場での臨機応変な対応につながるコミュニケーションの観点を一人でも多くの人に届けるべく、研修・セッション・執筆等を行っている。介護福祉士・介護支援専門員・主任介護支援専門員・コミュニケーショントレーニングネットワーク講師・介護支援専門員実務研修講師・介護支援専門員専門研修講師・介護職員初任者研修講師


“理由を探る”認知症ケア―関わり方が180度変わる本
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この記事を書いた人

阿部 敦子

所持資格:介護福祉士、認知症ケア専門士、介護支援専門員。神奈川県相模原市出身、同市在住。高校卒業後、経理事務を経て医療事務に。保険請求業務よりも窓口で高齢者と関わることに楽しみを見出す。父親の死により介護を強く意識し、特別養護老人ホーム、訪問介護事業所、13年間の認知症対応型通所介護事業所を経て、現在も介護の仕事に携わる。平成25年に相模原市認知症介護指導者となる。認知症に対する理解を広めたいと強く思うようになり、認知症を題材とした小説を書き始める。

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