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認知症介護小説『その人の世界』vol.22

なんやこれ。ただのお湯やないの。

「ちょっと、ちょっと」
私はエプロンをつけたお姉ちゃんを呼び寄せた。

「はあい」
甲高く返事をしたお姉ちゃんが私のもとへ来ると、私は手にしていたお椀の中身を指さした。
「これこれ、ぜんぜん味がせえへんのよ」
「そうですか。そんなはずはないんですけど……」
「誰も言わへんの?」
「はい、今のところ……」
「私のだけ何か違うん?」

私が見上げると、「ちょっとお待ちください」と言ってお姉ちゃんは姿を消した。代わりに現れたのは白い格好の料理人やった。
「すみません。何か味がおかしいですか」
男の料理人は私の前で、被っていた白い帽子を取った。

「おかしいっちゅうか、味がせえへんのよ、ダシの味が。これ、ダシ取ってんの?」
「はい、一応」
「一応って……あんた、これ、ただのお湯と同じやないの」
「申し訳ありません。気をつけます」
料理人は頭を下げた。

「気をつけるっちゅうか、こんなんで金取るつもりなん?」
「えっ?」
「あんた、商売人やろ。これじゃ、あかんで」
「少々お待ちください」
料理人はフロアーの奥へ姿を消した。

私は街の食堂で昼食をとろうとしていた。よう分からんけど、たまに息子夫婦が私を外に出して食事をとらせる。車で迎えに来てくれるし、「運動やらカラオケやらついてくるからお得なんや」と息子は言う。何でもええけど、食事がまずいのは、とにかくイヤや。

料理人を待つ間、私はコロッケを箸で割って口へ運んだ。
「なんやこれ」
ソースがおかしいとすぐに分かった。衣にべちゃっと染み込んで、やたらと辛い。

「ちょっと、ちょっと」
私はもう一度、さっきのエプロンのお姉ちゃんを呼び寄せた。
「はあい。今度は?」
「あのな、これソースが合わへんわ。どこのソース使ってんの?」
「どこのソースって、プルドッグとかですか」
「プルドッグ? 知らんな。コロッケいうたらおたふくソースやんか。よう覚えときや」
「はあ……」
お姉ちゃんは歯切れの悪い返事をした。

「もうええわ。さっきのお兄ちゃんに言うから。お兄ちゃん来るまで飴ちゃんで我慢するしな。あんたにもあげるわ」
私は手元のバッグから飴ちゃんを出し、お姉ちゃんにひとつ渡した。
「それよりな、あそこにおる奥さん」

私が指さした先には車椅子に寄り掛かったおばあさんがいた。エプロンをつけたお兄ちゃんに粥を食べさせてもらっている。おばあさんは目を閉じたまま、口も動かすことなく粥を溜め込み、時折「んふっ、んふっ」と肩で咳込んだ。

「あそこの奥さん、食べへんやないの。ずっと見とったけど、マズいんとちゃうか?」
「そうですね」
「そうですね、やなくて、何か考えてやらんとかわいそうやろ。私は自分で言えるけど、あの奥さんはもの言われへんのと違う?」
「はい、確かに……。あの方は最近、秋田から来られたばかりで、どうしたら食べてくれるか私たちも分からないことが多いんです」
お姉ちゃんはおばあさんに視線を向けたまま言った。

「秋田いうたら、味濃いのが好きやろ。あんな真っ白な粥じゃあ、味せえへんと違う?」
「確かに……」
「確かに、やなくて、しょうゆでも、たらしてやったらええんちゃうの? やれることはすぐやったらええのよ」
「はい」

お姉ちゃんもフロアーの奥に引っ込むと、すぐに小皿を手にして戻ってきた。私はお姉ちゃんと一緒に車椅子のおばあさんの隣に立った。小皿にはしょうゆが入っていた。
「かしてみ」
私はお姉ちゃんから小皿を奪い取ると、しょうゆを粥にかけた。
「あっ」
お姉ちゃんが目を丸くした。

「ほれ、お兄ちゃん。これ、あげてみて」
私はお兄ちゃんの肩をどついた。
「あ、はい」
お兄ちゃんはスプーンを持ち直すと、しょうゆのかかった粥をおばあさんの口に入れた。

「あ……」
お姉ちゃんが微かに声をもらした。おばあさんの目がうっすらと開いたからだった。私たちはその口元を見守った。

少し経つと、おばあさんの唇がきゅっと閉じた。
「おいしいやろ。味がするやろ」
私はおばあさんに向かって言った。

おばあさんの顎が動いた。それまでじっとしていた舌を上下に動かし、味わっているのが分かる。
「味わっているみたいですね……」
お兄ちゃんもおばあさんの口元から目が離せないようだった。

おばあさんの頬がくぼんだ。喉がごくりと鳴って、飲み込んだのが分かった。
「おいしいですか」
お姉ちゃんがおばあさんの耳元で言った。その時だった。

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