そもそも教育は凡人のためのものではない

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メカAGさんのブログ

今回はメカAGさんのブログからご寄稿いただきました。

そもそも教育は凡人のためのものではない

「6×8は正解でも8×6はバッテン?あるいは算数のガラパゴス性」 2011/12/21 『プロジェクトマジック:ITmedia オルタナティブ・ブログ』
http://blogs.itmedia.co.jp/magic/2011/12/6886-2d5b.html

なんかデジャヴを感じるのだが、こういう水掛け論の話題ってのは、定期的に盛り上がるものなのだろうな。で、インターネットのオピニオンリーダーたちの反応はたいてい決まっている。「押し付け教育は子どもの自由な発想を奪う、けしからん、これだから日本人は……」と。

いつも不思議なのだが、この程度の“押し付け教育”で、芽を潰されてしまう才能がもしあるとしたら、どのみちたいしたことないんじゃないの? と。むしろ子どものころに同じような(子どもの視点で)理不尽な思いをした時の恨みをいま晴らしてるんじゃないの? と思ってしまう。

何度も言うけど、本当に才能のある人間は、ちょっとぐらい先生に杓子定規(しゃくしじょうぎ)なことを押しつけられたからといって、その才能が潰れるわけがない。むしろこういうことを騒ぎ立て問題視する人間は、才能のない中途半端な人間なのだと思うのだよね。

  *   *   *

学校の勉強というのは、少なくとも高校までは、“型”を学ぶものだ。発想を学ぶものではないのだ。教わったとおりのことを真似ることが目的。もちろん自分であれこれ考え発想する力は大事だが、それは学校の授業では学べない。

それは自分で学校以外の場所で学ぶしかないのだ。逆にいえば大半の人間はそんなもの自分で学ぶことはできないから、大半の人間は発想力のない凡人なわけだ。そういう凡人が学校の先生から発想力を学ぼうとしても虚しいだけだ。

たとえばテレビゲームを考えてみればいい。親や先生が「ゲームばかりしてちゃいけません」と言っても、みんなするだろう。好きというのはそういうことだ。止められても障害があっても、突き進む。

だからゲームは上手くなる。発想力も同じで、禁止されようが邪魔されようが、発想が好きな人間はそういうものを物ともせずに、親や先生の目を盗んで自分で考えるものだ。そうでなければ身につかない。

で、先生に「こうしなきゃダメですよ」と言われて、しぶしぶ従い、その先を考えない人間は、どのみち考えることが好きじゃないのだから、その先の成長もたかが知れている。

  *   *   *

むしろ「掛け算の順序を変えちゃいけません」と言われたほうが「なんでダメなのだろう?」と自分で考えるきっかけになると思うのだけどね。なんでも自由にさせれば発想力が身につくと思うのが典型的な間違い。

自分が直面した問題をなんとか合理的に処理しようとすることが、考えるきっかけになるのであって、「○○ちゃんの考えも正しいですよ~」と単に肯定されたら、そこから先は何も考えないだろうに。人間は必要に迫られて“考える”のだ。

これは大人も同じで、「この人ってなんでこんな発想ができたのか?」とジェラシーすら感じることは多々ある。でも分析していくと、その人も必要に迫られて仕方なしに考えに考えぬいて、そういう発想にたどり着いたのだとわかる。

余人を持って代えがたい発想をする人間というのは、そういう経験をたくさんしてきたのだろう。だからそういうときは俺は逆に「なんで俺は自分をそういう必要に迫られる状況に置かなかったのか」と、心底悔しいね。やはり試練(?)は必要なのだと思う。

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直接関係ないが、ちょうどこんなツイートが目に止まった。

@tebasakitoriri やけくそでしたがそこそこの点がもらえました。ところで、鴻上尚史さんが自分の文章が大学受験で使われたので解いてみたら間違っていたと言ってました。そんなもんかもしれないですね(笑)。

@mofjdさんのツイート『Twitter』
http://twitter.com/#!/mofjd/status/150178967138222080

自分の書いた文章が受験の問題になったので、解いてみたら正解ではなかったらしい。学校の勉強というのはこういうものなのだ。定型的な思考で導き出される答えを“正解”とするのであって、それは必ずしも真実とは限らない。

むしろクセのある深遠な文章は、そういう方法では読解できないだろう。その読解方法は教わることはできないのだ。それは学校で教わるのを待つのではなく、自分で試行錯誤の末に身につけなければならない。

  *   *   *

日本人の発想力が貧困なのが問題だというなら(俺はそれほど問題だとは思ってないが。もともと限られた人間しかできないものだ)、それは“学校で教わるもの” “学校が教えるもの”と考えている点に根本的な原因があるのだろう。

学校は決まりきった“型”を教えることに徹するべき。生徒の発想力を伸ばすなんて無謀なことに手を出すべきではない。そんなことをしても失敗するし、型を教えることも疎かになってしまう。杓子定規(しゃくしじょうぎ)に“型”をたくさん生徒に強引に詰め込めば、そのうちのひとにぎりの人間は、それらを参考にし、あるいは時には反発することで、自主的に発想力を磨き始めるだろう。

それでいいのだ。教育というのはひとにぎりの才能ある人間のためのものだ。子どものうちは才能の有無を見抜けないので、仕方なしに一律に教育する。それによってひとにぎりの人間が才能を開花させ、残りの大半の才能のない人間は無駄に教育される。だからそういう人たちは「なんのために勉強したのかわからない」となる。それはそのとおり。教育とは才能のあるひとにぎりの人間を生み出すための投資でしかない。凡人は人生の時間を無駄にするだけだ。残念ながらそういうものなのだ。

  *   *   *

よく学校教育はもっと実用的なこと、社会に出てすぐに役立つ知識や技術を教えるべきだという人が少なくない。凡人をターゲットにするならそのとおりだと思う。大半の人間は新しい発想などできず、これまで誰かが編み出した方法をそのまま踏襲して仕事をし、老いて死んでいく。教育がそういう人たちのためのものであるなら、そういう実用的なものを重点的に身につけさせたほうが合理的だろう。そうではないから、そうではないのだ。

まあ発展途上国のように、国民の大半にはろくな教育をせずに、さっさと働かせて仕事の中で必要な知識や技術を身につけさせるのも、いいとは思うけどね。教育のコストが節約できるし、当人たちも無駄なことを教わることに人生の時間を費やす必要もなくなる。コストはひとにぎりの金持ちの子どもや、傑出した才能を見出された子どもに集中して投資する。

社会で役に立つ教育をするというのはそういうことだ。でも現在の日本の教育に文句を言っている人たちが、そういうのを望んでいるようにも見えないんだよね、おかしなことに。俺はむしろ、大半の投資が無駄になることを承知のうえで、なるべく可能性を留保しておく(あまり才能のなさそうな人間にも、教育を施す)日本方式は、そんなに悪くないと思う。もちろん教育のコストは上がるし、費用対効果は下がる。そのコストに耐えられるのは(少なくとも発展途上国よりは)日本国が豊かだからだ。

大半の人間は中卒程度の教育で十分だろう。それで足りない知識は仕事を通して学べばいいわけで。高校や大学で社会に出て役に立つ教育をしろというよりも、中学を卒業したら働くことを推奨するほうがよっぽど合理的だ。しかしそれだと中学まではぱっとしなかったが高校〜大学で目覚しい才能を開花させる稀(まれ)な人間の可能性を切り捨てることになる。日本の現状の教育システムはそういう人材も拾っておこうということ。

まあ、みんな本当はわかってると思うんだけどね。インターネットのオピニオンリーダーたちも。でもそれをおおっぴらに口にすると、大多数を占める“凡人”から、袋だたきに遭うから口にしないのだろう。

執筆: この記事はメカAGさんのブログからご寄稿いただきました。

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