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よるべのない世界、見知らぬ言葉、自分だけの記憶

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よるべのない世界、見知らぬ言葉、自分だけの記憶

 エヴンソンは現代アメリカ文学の作家だが、SFやホラーのファンからも注目されている。先に邦訳された短篇集『遁走状態』(2009年)はローカス賞とシャーリイ・ジャクスン賞のリストにあがった。『ウインドアイ』(2012年)もジャクスン賞の候補となった。

 ジャンル小説の読者にとってエヴンソンが取っつきやすいのは、シチュエーションがくっきりと現実離れしている点だろう。

 たとえば、本書に収められた「スレイデン・スーツ」では、暴風雨にとらわれて進路を見失い食料も尽きた船から、旧式の潜水具スレイデン・スーツによって脱出しようとする。といっても、海にもぐるわけではない。乗組員のひとりスティグが伝声管から何者かの声を聞き、この状況から逃れるにはスレイデン・スーツで這って出なければならないと悟ったのだ。スティグはその声は彼の双子の兄弟のトアだったというが、トアは嵐の甲板から大波に攫われて死んだはずだ。ほかの乗組員はその話を真に受けたわけではないが、やってみても失うものはないと思い、スティグにスーツを使わせる。スーツは胸部からゴムの太い管が伸びていて、そのトンネルをくぐるようにして内部へ入る。スティグは苦労してスーツを装着し、ゴムの管をはずさぬまま歩きだしたかと思うと、忽然と姿を消してしまう。スーツだけが抜け殻のように通路に横たわっている。

 スティグは脱出できたのか? スーツに食われたのか? 残された乗組員はこの事態に昂奮しつつも、スーツを畏怖する。次に誰かがスーツに入ってどうなるか確かめるべきだろう(ほかに有効な手段は残されていない)。しかし、どうにも拭いきれない躊躇が船全体を浸す。

 まるでJ・G・バラードやトマス・M・ディッシュの初期短篇のようなシチュエーションではないか。もちろん、スレイデン・スーツはテレポーテーション装置などではなく、すっきりとしたタネ明かしもされない。この作品でスレイデン・スーツのほかに印象的なのは、ひとふりのダイビングナイフである。このナイフは物語の冒頭で船長の心臓を貫いたもので、その犯人は不明のままだ。スティグが消え、次にスーツに潜りこんだエイサも消え(彼はロープを腰に巻いていたが、それは輪のままで後に残された。血がべっとりとついて)、私(語り手)が三番目にスーツを使う役を任される。ゴムのトンネルにもぐりこむ間際、鞘に入ったナイフが手わたされた。このナイフが運命を変えるのだが、それは良い方向かどうかは最後の最後までわからない。

 この作品はミステリのようにも読める。まず、船長を殺した犯人は誰か? スティグとトアの双子は一緒に嵐の甲板へあがっていき、ひとりだけが帰ってきた。ほかの乗組員は帰ってきたのはトアのほうだと思ったが、本人が自分はスティグだと言い張り、それを認めることになった。ここにトリック、あるいは意図せぬ取り違えがあったのではないか? いくつかの解釈が可能だが、それがスレイデン・スーツとどう結びつくかはわからない。

 バラードはニュー・ウェイヴ運動のマニフェストともいえる「内宇宙への道はどれか?」のしめくくりで、ロンドンでの講演で潜水服姿を披露したサルヴァドール・ダリにふれている。われわれに必要なのは内宇宙を探るためのダイビングスーツというわけだ。エヴンソンのスレイデン・スーツもまた、そうしたひとつの手だてだろう。

「スレイデン・スーツ」もそうだが、エヴンソンの小説の登場人物は自分たちがさらされている異様なシチュエーションに戸惑い、逃れる手だてを考えたり、とにかく行き当たりばったりで行動してみたりするのだが、かといって正常な世界がどこかにある(あるいはかつてあった)と思っているわけではない。いま直面している問題を解決しても、世界はよるべのない場所なのだ。

「タパデーラ」は死んだ少年がよみがえってくる、設定だけみればゾンビ小説だが、少年がゾンビ化する以前から(というか死ぬ以前から)登場人物たちは尋常とはいえない状況のなかにあるらしい。ただ、どうしてそうなったかの説明はいっさいない。生きているのはフランクともうひとりの男。フランクは暴力的で、もうひとりの男にあれこれと指図するが、男も素直に従うわけではない。男が逆らうとフランクは「じゃああそこの死んだ小僧にやらせろ」などという。どうやら少年は、フランクに逆らって殺されたらしい。

 少年がよみがえってくると、フランクは顔色も変えず「外行って死んでいろ」と命じるが、少年は「ここで死んでいるほうがいい」と家に入ってこようとする。ゾンビ状態といっても凶暴化してはいないので力ずくで少年を阻止できるが、相手は死体だから痛くも痒くもなく、まったく諦めずに家への侵入を試みる。延々とそれが描かれる。

「アンスカン・ハウス」は、何かが宿った空き家をめぐる怪奇譚だ。その家の呼び鈴を鳴らすと、それが地下室からあがってくる音が聞こえて、ドアのすぐうしろまでくるのがわかる。郵便受けの差入れ口を開けて、病気のひとの名前を告げ「そのひとの苦しみを私が引き受けます」と言えば、その願いが叶えられるという。病人は元気になるが、自分がその身代わりになってしまう。

 この作品がより不吉で不思議に感じられるのは、ただの都市伝説として語られるのではなく、幼い少年セフトンが姉と兄の会話を立ち聞きして知るところだ。「アンスカン」という発音すらさだかではない。姉と兄がその話をしていたのは父親が仕事先で足を怪我したからで、けっきょく、ふたりは実行に移すことはなかったが、思いつめたセフトンが誰にも内緒でアンスカン・ハウスに願をかけにいってしまう。

 読み進むうちにわかるのだが、これは現在進行で語られている物語ではなく、成長したセフトンの回想なのだ。アンスカン・ハウスなどというものが本当にあったかどうかはわからない。幼いころの記憶は、原因と結果が逆転していることもままあるし、関係のない断片をつなぎあわせて実体のない想像をすることもある。そんなふうに事実性があやふやな、しかし自分の記憶のなかではくっきりとした印象が刻まれたものごと。だれもがそんな記憶のひとつやふたつは持っているのではないか。

 表題作「ウインドアイ」もそうだ。主人公の「彼」には妹がいた。彼がまだ少年のころ、ふたりで庭から家を眺めていて、おかしなことがわかる。外側の窓が、内側よりひとつ多い! 彼は妹が生まれる前に、祖母から聞いた話を思いだす。彼女が育ったところでは窓はウインドウではなく、Vからはじまる別な名前で、それは「風の目」という意味にもなるのだ。ここでもアンスカンと同様、耳慣れない曖昧な言葉が心に引っかかる。

 彼と妹は家を点検する。妹は勇敢にも、家の内側から窓の外へと身体を乗りだし、外からしか見えないその窓へ接近しようと試みる。その手がふれたとき、風の目は彼女を煙のように吸いこんでしまった。妹はいなくなった。

 彼はあわてて母親を呼ぶが、母は「あんた、妹なんていないじゃない」とにべもない。その後、長い年月のなかで、自分には妹なんかいなかったと思うときもあったが、それでも妹の実在を信じているのが彼ひとりならば、絶対に妹を忘れてはならないと考えるようになる。

 いたはずの妹。そこまで鮮明でなくとも、子ども時代のある時期すごく仲良く遊んだ誰かがふいにいなくなって、自分以外はだれも覚えていない—-そんなことはないだろうか? ぼくにはある。感傷的なノスタルジーではなく、拭いきれない不思議な体験として、いま生きている自分の命のなかに抱えこんだ記憶として、いまもある。

(牧眞司)

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