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「どこまでもいっしょに行こうねえ」

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「どこまでもいっしょに行こうねえ」

 ちょっと途方にくれている。山田正紀はどこへいくのだろう、どこまでいくのだろう?

 この新作長篇『カムパネルラ』はラディカルな試みをしているのだが、それがはたして成立しているのか、よくわからない。というよりも、作者ははなから「成立」(=物語として完結する)など考えていないように思える。

 といっても前衛的な実験小説ではない。すじの通った物語がある。むしろ物語が多すぎるほどだ。そのタイトルが示唆するように、この作品は宮沢賢治『銀河鉄道の夜』を下敷きにしている。たんに題材として取りあげているのではなく、賢治の物語/テキストが取りこまれており、主人公(語り手)はときにジョバンニとなってあの世界を生きる。しかもそのテキストもひととおりではなく、『銀河鉄道の夜』第三次改稿版(昭和三年に推敲)と第四次改稿版(昭和六〜八年に推敲)が平行する。どちらのテキストを選びとるかは重要な問題だが、では選ぶ主体は誰なのか? その問いはそのまま『カムパネルラ』のリアルを照らしだす。

 さらに『風野又三郎』/『風の又三郎』(こちらも二種類のヴァリアントが拮抗する)と『雨ニモマケズ』からの乗り入れもある。テキストが干渉しあっているのだ。

 しかし、それがわかるのはしばらく先だ。『カムパネルラ』はあたりまえの物語のようにはじまる。語り手の「ぼく」は十六歳の少年で、母親の遺骨を豊沢川に撒くため花巻へと向かおうとしているところを、二人の男に呼びとめられる。
 その場面から、ぼくの語りは回想へ転じる。

 母は宮沢賢治の研究家で、とりわけ『銀河鉄道の夜』の第四次稿の復元に力を注いでいた。しかし、それを中止するよう文部科学省から横槍が入り、彼女は勤めていた大学を解雇されてしまう。じつは『カムパネルラ』の日本は、私たちの現実とは異なる世界なのだ。「美しい日本」をお題目とする全体主義のもと、ひとびとの思想や行動はメディア管理庁なる機関によって監視されていた。青少年を体制に馴致するうえで、自己犠牲の精神を謳いあげた『銀河鉄道の夜』第三次稿は都合がよい。しかし、賢治は『雨ニモマケズ』に共通する『祈り』をテーマにした第四次稿に取り組んでいた—-というのが、ぼくの母の主張だった。

 ぼくはいつのまにか眠っていたらしい。目を覚ますと新幹線は新花巻に着いていた。駅前からタクシーで目的地の大沢温泉へ行くが、そこで自分が遺骨を忘れていることに気づく。反射的に駆けだしたぼくは、豪雨のなかで『銀河鉄道の夜』に描かれた天気輪の柱を目にする。いや、そもそも天気輪を知らないので、見た気がするとしか言えないのだが。

 そこから意識が遠のき、気づくと目の前を二頭の馬が横切り、背後からは路面電車の音が聞こえている。わけのわからぬまま電車に乗りこんだぼくは、乗客が手にしていた新聞で「いま」が昭和八年九月十九日だと知る。しかも、自分はここではジョバンニと呼ばれている。

 ジョバンニとはいうまでもなく『銀河鉄道の夜』の主人公だ。カムパネルラは彼と一緒に旅をする友人。ジョバンニはこう呼びかける。

 カムパネルラ、ぼくたち、どこまでもいっしょに行こうねえ。

 この言葉は『カムパネルラ』を通じて残響のように聞こえている。

 さて、自分がなぜジョバンニと呼ばれているかはわからないが、まずは昭和八年九月十九日という日付が重要だ。歴史的事実では宮沢賢治は昭和八年九月二十一日に死亡している。ぼくが母から聞いたところでは、その前日の二十日に自宅静養中だった賢治のもとにひとりの男が訪れた。その男と長時間応対したことが、体にさわり、賢治の容態が急変したという。つまり、この面会を阻止すれば、賢治は生き長らえるのではないか。

 ぼくの脳裏にタイムパラドックスへの不安がよぎるが、あの宮沢賢治を救えるのなら放っておくことはできない。意を決して宮沢家を訪ねるのだが、そこで驚くべきことが告げられる。賢治はもう五年前に亡くなっていた。しかも、それを語ってくれたのは宮沢トシ、賢治に「永訣の朝」を書かせた妹なのだ。本来ならば大正十一年に亡くなっているはずの。

 ここから先のあらすじを示すわけにはいかない。『カムパネルラ』は推理小説ではないけれど、いくつもの謎、何重もの真相が仕掛けられており、いかに慎重に語ったとしても読者に予断を与えてしまうからだ。

 ひとついえるのは、山田正紀はテキストの異本(ヴァリアント)を平行宇宙として扱うばかりか、そのテキストの作者/登場人物/読者を同じ地平へ繰りこもうとしている。それが『カムパネルラ』の外にいるはずの作者(山田正紀)と読者(私たち)にも共振のように効いてくるのだ。

 作中にこんな一文さえ置かれている。

 いい気味だ。誰が感動的になんか物語を終わってやるものか。

 もちろん、これは山田正紀(作者)が私たち(読者)に直接言っているわけではなく、この作品のSF的ギミックのなかで意味を持つ文言なのだが、同時に「物語のなかだけのことだ」とすっきり納得できる書きかたでもない。

(牧眞司)

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